傷寒論私見…気上衝とは〔15〕

15 太陽病、下之後、其気上衝者、可与桂枝湯、方用前法、若不上衝者、不可与之、

▶気上衝とは

太陽病 (脈浮、頭項強痛、而悪寒) は下してはいけないのですが、下剤をかけてしまった。ここで気の上衝があれば桂枝湯を与えてもよい、といっています。気の上衝とは何でしょうか。

ひとつは、表面に気が集まるということです。人体生命を球形と見た時、上下はありませんので、表面が上になります。地球で考えると分かりやすいと思います。つまり気が体表にある、表に病位があるということです。このとき、たとえば脈が浮になります。生命全体も、皮膚に気が集まっています。脈と生命は相似関係として見るべきです。

もうひとつは、上に気が集まるということ。人体生命を頭部と足部を具備する上下あるものとして考えるときです。このとき、たとえば寸部の脈がしっかりするということは言えるでしょうが、個人的にはそこにはこだわっていません。

よって、気の上衝を示す外候は、ぼく的には「浮脈」をもって断じるとしておきます。ただし、浮脈が何を表すのか、気の上衝とはどういうイメージなのか、これを忘れて浮脈だけを追いかけるとなると、いずれ必ず「骨抜き」になってしまうので気を付けたいですね。

以下に、気の上衝とはどういうイメージなのかをさらに詳しく展開します。断っておきますが、「気が昇ってのぼせる」というような病的なものとは限りませんので、そのつもりでお願いします。

▶誤下したとき、桂枝湯で効くボーダーを示す

下した後なので、営陰の不足があります。営陰の不足がありながらも、浮脈で耐えられているわけですから、桂枝湯しかありません。

もし気の上衝がなければ内陥しているので、桂枝湯では効果がありません。この条文は、太陽病で下剤をかけたり、偶然下痢したりしたとき、桂枝湯を与えてよいのか、つまり純粋な表証としてとらえてよいのかどうかの判断基準を提示しています。

▶桂枝湯アラウンドにも気上衝がある

誤下がないとしても、この条文が示唆するところは多いと思います。

誤下したということは裏が弱ったということです。急に裏を弱らせることがあれば、誤下でなくても同じことが言えます。

そしてそういう場合は、裏が弱くとも桂枝湯を与えてよい。気の上衝があればという条件付きで。

桂枝湯の適応であることから逆算して、気の上衝とは、誤下 (裏の弱り) があろうがなかろうが、邪気が体表にあって、正気が表に集まっている (集まることができる) ことをいうのでしょう。たとえ裏が弱ったとしても、気上衝がなおあれば桂枝湯で行ける。裏が弱って気上衝がなくなったならば、もう表が戦場ではなくなっているのだから、桂枝湯は与えない。

桂枝湯は、その組成を元として、様々な薬が生み出されていますが、これらは桂枝湯+α ・あるいは桂枝湯-α とも言えます。こういう薬を本ブログでは「桂枝湯アラウンド」と呼びたいと思いますが、これらは、すべて気の上衝があるということになります。すべて表にも効く要素があるからです。

▶誤下でなくても気上衝はある

15 太陽病、下之後、其気上衝者、可与桂枝湯、方用前法、若不上衝者、不可与之、

16 太陽病、三日、已発汗、若吐、若下、若温針、仍不解者、此為壊病、桂枝不中与也、観其脈証、知犯何逆、随証治之、

17 桂枝本為解肌、若其人脈浮緊、発熱、汗不出者、不可与也、常須識此、勿令誤也、

15条で気上衝さえあれば桂枝湯だと言いつつ、16条では桂枝湯証治療後に改善しなければ桂枝湯は適当でないと言い、17条で「解肌」こそ桂枝湯の目的だから肌に病があるかないかを考えてやれ…と言っています。つまり、気上衝も壊病も、肌 (よりも表) に病があるかないかを伺うための概念であり、肌に病があるかないかさえ分かれば対応できるのです。

そもそも頭項強痛も、悪風悪寒も、気上衝があればこそ起こる症状と考えるならば、肌よりも表に病があれば気上衝と捉えていい。皮毛の病 (麻黄湯証) でも桂枝は使います。

15・16・17条は、こうした理論を説明しています。その後、後人の攙入文?が続き、21条で桂枝加附子湯、22条で桂枝去芍薬湯が登場します。この文脈から見て、桂枝加附子湯も桂枝去芍薬湯も、「気上衝」があり、「可与桂枝湯」の範疇に入るものであると思われます。また純粋な桂枝湯ではないので「桂枝不中与也」の範疇にも入るのです。

これからたくさん出てくる、それ以外の薬でも、こういうモノサシを使いながら読み解くと、「解肌」とは何かが見えてくると思います。

▶他の条文での「気上衝」

他の条文で「気上衝」という言葉を探すと、

67「傷寒、若吐、若下後、心下逆満、気上衝胸、起則頭眩、脈沈緊、発汗則動経、身為振振揺者、茯苓桂枝白朮甘草湯主之、」

173「病、如桂枝証、頭不痛、項不強、脈微浮、胸中痞鞕、気上衝咽喉、不得息者、当吐之、宜瓜蒂散、」

とあります。どういうものを「気上衝」と表現しているのか、参考までに挙げておきます。わざわざ「気上衝」という詞を出してきているのは、出しておかなければ分かりにくい証だからかもしれません。

「気上衝」と明記していなくても、表に行く桂枝があれば気上衝はある。そして肌の邪気の有無とそれが取り除けているかどうかが、術者には見えていなくてはならない。

これからたくさん出てくる、桂枝湯の壊病を解くうえでの前提となります。

▶気上衝 (浮脈) をみる難しさ

気の上衝、一番わかりやすい証候は「浮脈」であるといいました。しかし、ぼくが思うところなのですが、脈の浮沈とは、虚実を見るのと同様の難しさがあります。

東洋医学の脈診って何だろう
中医学では二十八脈を挙げています。浮、沈、遅、数、滑、濇、虚、実、長、短、洪、微、緊、緩、弦、芤、革、牢、濡、弱、散、細、伏、動、促、結、代、大(or疾)のことです。一見複雑ですが浮沈・遅数・大細・長短という陰陽から、細分化して行きます。

ぼくは、肌よりも表に邪があるかないかを、まず天突で候 (うかが) います。これは望診で行います。

証候とは… 病態把握への果てしなき挑戦
中医学では、病態のことを「証」といいます。証には「証名」と「証候」があります。ここに「悪寒・浮脈・頭項強痛」というひとくくりの症状があるとします。このとき証名は「表証」です。このとき証候は「悪寒・浮脈・頭項強痛」です。

望診というと難しく感じられるかもしれませんが、脈を診るのとそう変わりません。言い換えれば、脈を診るということはそれほど難しい。

浮沈すら、診るためには血のにじむような精進が必要だと考えています。

その難しさは、 “気上衝” という分かりづらい詞を理解する難しさと直結します。仲景先生は、そのような難しいイメージをこの詞で表現されているのですね。

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