「気」の世界との向き合い方

【質問】
東洋医学全般に興味があります。まずは気功から学んだ方がわかりやすいでしょうか。

【回答】
僕も気功のようなものを使います。初めて僕の治療を受ける患者さんは、じっと顔を凝視されて戸惑われることがあります。一瞬で多くの情報を得ます。中医学では望診といいます。そうやって体全体をも見、また体に手のひらを触れたりかざしたりします。これは切診 (切経) に属します。鍼をかざしただけで治療を終えることもあります。

このようにして、なぜこういう病気になったか、どのツボが効くか… ということを見るとはなしに見抜きます。そして、鍼で気を動かします。

これは僕の治療の根幹をなすもので、これが使えなかったら、ほとんど何も言えないし、できないし、自信ももてず、今まで書いてきたことも思いつくことすら叶いません。それほど僕の生命線となっています。

古代鍼 (鍉鍼テイシンの一種:金製) で気を集める

しかしこれは、当たり前で誰もが常識と思えるようなことを、地道に繰り返し踏み行うなかで、だんだんと段階的に使える (感じられる) ようになってきたものです。

熟練した魚屋さんは、一目見るだけで美味しい魚を見分けます。しかし、どうやって見分けているのか説明を求められても、おそらくできません。言葉にできない。こういうのを不立文字 (ふりゅうもんじ) といいます。これは、まさしく「気」を見ているのです。最初からできたのではなく、血のにじむような長年の努力の結果です。

魚をよく見、よく触り、よく嗅ぎ、よく味わい、それを何千回、何万回と繰り返す膨大かつ真剣な経験、その統合として生み出された「感覚」です。技術者・科学者を問わず、他の職業でも同じです。素人が逆立ちしても真似のできないプロの仕事であるならば、みな同じような「研ぎ澄まされた感覚」を持っています。説明を受けても素人には理解できません。

この「感覚」は、素人が物理的に真似できない時間的努力を、日々積み重ねてたどり着く「高み」です。経験を積んだ大人のやることを、子供は理解できませんね。しかし大人は子供のやっていることが理解できます。かつて通った道だからです。

器用に手っ取り早く造った道には、必ず落とし穴があります。一番怖いのは勘違い (努力的根拠のない自信) です。

常識的な土台の上に成り立ったものであれば、勘違いが少なくていいと思います。だれでも、最初は勢いで行けます。しかし、どこかで壁にぶつかります。そのとき、常識的な土台があれば、また道を見つけることができます。ぼくはそれを中医学に求めています。

寝ても覚めても勉強し、その意味を考え続ける中で、年を経るごとにハッキリと感じられるようになってくる。地道な努力、誰も追いつけない時間の積み重ね、そういう日常の姿勢の上に成り立ったものであれば、確かなものだろうと思っています。僕が何よりも重視しているものです。

ただし、着眼点は必要です。闇雲に走るだけでは遠回りになります。

物質的側面 (解剖学的な見方) の裏には、必ず機能的側面があります。たとえば人の肌 (物質) にふれると、かならず温かみ (機能) がありますね。これは疑いようもなく存在します。しかし、温かみは目に見えず写真にも取れません。体 (物質) と心 (機能) だってそうですね。砂糖 (白い粉でできた物質=実体) と甘さ (機能=実用) の関係もそうです。

そういう「目には見えないが感じられるもの」が気です。これはどんなものにも必ず潜んでいます。そういうものを「あるにちがいない」と探し続けることが、東洋医学を学ぶための最短の道程になるのではないでしょうか。そのうち、誰も感じることのできない世界を感じることができるかも知れません。

こういうものが、いわゆる「幻覚・幻聴」ではいけません。「幻覚・幻聴」とは、本当は「外部」には存在しないのに「ある」と勘違いしてしまうものです。ただし、この勘違いは自分自身の「内部」になら、確かに「ある」のです。

統合失調症にみられる特徴です。

幻覚・幻聴… 統合失調症の症例
統合失調症の幻覚・幻聴に対する中医学的治療について考察する。

このような恐ろしいものが、世の中には実は多く存在しています。潜在的な患者数は思ったよりも多いかも知れません。世の中にある多くの行き違い・すれ違いは、これが原因ではないかとさえ思います。

「この戦争は侵略ではなく正義である」と信じている人もいますが、これは幻です。なんとなく自信もあって臨んだテストだったが、驚くほど悪い成績が返ってきた。これも幻を見ていたのです。

これらは「わるい幻」です。人を不幸にします。

人を幸福にするものならば、たとえ幻であっても大歓迎です。「パートナーと仲良くやれば世界平和に一歩近づいたことになる」と信じ込む。幻です。なんとなく不安もあって迎えたテストだったが、驚くほど良い成績が帰ってきた。この不安も、幻を見ていたのです。

これらは「いい幻」です。人を幸福にします。

幸福にする場合は、物質 (現実) を見ているのか、その向う側にある機能 (理想) を見ているのか、そこが客観的にわかっていると思います。そういう「理性」がなければ、人を幸せにする (他人を幸せにする・自分が幸せになる) など及びもつかないことでしょう。

そのためにも、常識を勉強することが大切です。

ぼくは「気」という言葉を安易に使うことを躊躇 (ちゅうちょ) します。誤解を受けやすい。できるだけ常識にのっとった表現が可能であれば、それがいいと思っています。「誰もが納得の行く学問」としての言葉で、「誰もが感じることのできない世界」を表現できたらいいと思っています。

結果として、ああ、気というものはこういうものなんだ、この人はそれを捉え、それを表現しようとしているのだなあ… と思わせる。そうなりたい。どうせくだらない幻覚でも見てるんだろう…に陥らないようにしたいと思っています。

まあ、僕は鍼灸師ですから、ツボと鍼をおすすめします。当たり前ですみません。

ツボを物質的にのみ見てしまうとそれだけのことになります。物質的なものの裏側にある「機能」を見るのです。患者さんの訴えと合わせて見ていくと、いろんなことが見えてきます。そのうち患者さんが訴えていないことまで見えてきます。

鍼の尖った先端によるアプローチは、この世で最小限の物質的面積です。それによって「目には見えない反応」だけがシャープに変化します。鍼という物質 (誰もが認識できる常識) に立脚し、機能 (誰の目にも見えないもの) の変化を読み取りながら、中医学の理論にそって展開していくことができます。

しかし本当は、もっと大切なことがあります。

ベッドで休んでいる患者さんの体 (物質) が、寒くないかどうか (機能=気) を、一瞬でさりげなく見抜き、タオルを一枚かけることができるかどうかです。人の気持ちに寄り添えるかどうかの最低ライン、思いやり、おもてなし。

臨床はここからです。

これが完璧にできる人は「気」が見えています。おそらく将来もっともっと「正しく気を見る」ことができるようになる人です。それは、追いかけても追いかけても手の届かなかった「理想 (夢) 」が、今まさに目前に現れようとする「現実」です。

いい幻。

現実となる。

「先生のそばに来ただけで楽になる」

これが僕の知る「気」の世界です。

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