52歳。女性。佐賀からここ奈良まで通院、1ヶ月に1回、2泊して8回の治療を受けるのが通例となっている。
主訴は不眠である。初診は2025年2月、1年と4か月が経過した。臍下丹田に力は付いてきており、全体には良経過と見ている。寒い時期はその訴えはなかったが、1ヶ月前の5月来院時、暑くて眠れないと言い出した。暑くなってきているのでもともとある邪熱が刺激されてカーッとなるのである。不眠は多かれ少なかれ邪熱が関わる。そして暑邪の影響を受けやすい。特に治療日程中のホテル宿泊では暑さが倍増、眠れなかったと訴えた。ホテルでは落ち着けないので邪熱が強くなるのである。

6月15日 (木) 、1ヶ月ぶりの来院である。夜の暑さはどうかと聞くと、やはり暑くて眠れないとのこと、詳しく聞くと自宅はコンクリートの壁で覆われており、西日の当たる3階が寝室だという。クーラーを付けたら寒いし、消すとすぐに熱くなると訴える。18時頃からクーラーをつけて壁自体を冷ましておき、寝るときにクーラーを切るよう、時間をさいて指導した。
目の周りが痛いとも訴えた。
体の状態を診察すると、正気スコアで「可もなく不可もなく」という基準を満たしている。この日は計5回の治療で、正気の流れを大きくした状態で治療を終えた。目の周り (部分) の正気の状態も、全体の正気の流れと同じレベルに達していることを確認した。
今晩はホテルで一泊して明日また治療が予定されている。前回宿泊時の暑さを考慮して、
「ホテルでは眠れなくても気にしないで下さい。自宅での暑さは早めのクーラーで不眠にどの程度改善が見られるかですね。」
と心構えを説いた。不眠とは、変に構えてしまうと余計に眠れないのである。

翌6月16日 (金) 、この日は午前で3回の治療を行って佐賀に帰る予定である。
その1回目の治療時、正気スコアは、全体も部分 (目の周り) も昨日の治療で得られたレベルを維持している。よい流れがある。
「どうですか?」
「はい…目の周りの痛みが取れるといいんですが…」
ん ! ? 目 ? 目は初診時からの訴えでもある。過去なんども訴えたが、そのたびに消してきた。それが痛い? しかも正気スコアは優良なのに?
「目の周りの痛みですね、昨日と変わらない?」
「ハイ。」
「まずお伺いしたいのはね、ホテルだから眠れなくてもいいよっていいましたね? それは?」
「目の痛みで目がさめて…。」
「ん? 痛みで目がさめた ! ? 」
「ああ、いえ、目がさめたら目の痛みが気になって…。」
「それから眠れてない?」
「いえ、またすぐに寝たと思います。」
「暑くなかったの?」
「クーラーをつけたので。」
「前回5月はクーラーをつけても暑くて眠れなかったと言ってましたね。その時と比べて睡眠は?」
「ああ、良かったと思います。」
これはいけない。昨日の主訴は暑くて眠れないことだった。暑くて…というよりも「熱くて」眠れないのだ。邪熱が睡眠時に暴れ出すからである。そこを僕はほんとうに心配しているのである。それが思いのほか良かったにも関わらず、それは言わずに目のことだけを言った。第一主訴である不眠が良かったのに、否定的な表現になってしまっている。
当院の患者さんは、みんな本当に良くなってきている。ほとんどの方が治療前で「可もなく不可もなく」という正気スコアの「基準」を満たしているからだ。だが「可もなく不可もなく」というのは良い方にも行けば悪い方にも行くという「分水嶺」でもある。この状態を肯定できれば肯定的な結果となるし、否定すれば否定的な結果となる。「可もなく不可もなく」を満たしているにもかかわらず「特に変わったことなく大丈夫です」とならない場合、そもそものネガティブ思考が改善を邪魔している場合があるということが最近になってよく分かるようになった。
これはそれだ! 自分を信じる。そして行くしかない!
「この目の痛みはね、これでいいんですよ。いつも良いとは限りませんが、今日の診断では良いんです。良いことが起こっていると思って下さい。」
「え? そうなんですか?」
「目の痛みは深いところの痛みではないはずです。浅いところでしょう? 」
「はい。」
「浅いということはね、これから良くなろうとしているんです。お風呂でも深いところにゴミが沈んでいたら取れない。でも浅いところに浮いてくると、洗面器ですくえますね? 浅いということは悪いものが取れようとしている。目の周りの痛さは年来のものですね。だから取れる時も力量がいるんです。陣痛と同じです。たとえば妊娠出産の知識のない女性がいたとして、月のものが無くなり、お腹がパンパンに膨れ上がって、そのうえ死ぬかというような痛みが来たら、本当に死ぬと悲観するでしょう。それが否定です。でも、知識のある人から “それはめでたいことが起こる前兆だよ” と教えられたら、痛くても笑ってる。それが肯定です。」
このとき、お腹がグルグルっと鳴った。グル音である。
その瞬間、脈がさらに良くなる。
「ほら、体も “そうやそうや” って言ってる。体はね、この目にある邪気 (生命力を邪魔する要素) を今、何とか片付けようと必死で頑張っているんです。掃除も工事もそうだけど、いったん散らかってゴチャッとするでしょ? でもそれは頑張ってる証拠ですね? その頑張りを「ちょっとそういうのやめてよ」みたいに否定すれば、片付けは失敗するでしょう。その頑張りを「ありがとう」って肯定すれば体も喜んで、ますます力を発揮して邪気を追い出してくれる。流通させて排出してくれるんです。」
軽くうなずく。だがまだ腑に落ちていない。
「痛いじゃなくて、 “痛きもちいい” と感じてみて下さい。たとえば指圧は体の外から押してきますが、体の中から押されている痛みなんです。」
わかりづらそうな表情、じゃあ別の説明だ。
「ところでこの目の痛み、ウォーキング中はどうですか?」
「ウォーキング中は痛くないです。」
「そうでしょ? これは浮いてきている。たとえばコップの水にゴミが浮いているとしますね。スプーンでかき混ぜるとゴミが散らばって表面のゴミは無くなりますね? 体を動かすということは混ぜるということです。それでまた、コップを静かに置いておくと、ゴミが浮いてきますね? こうやってじっとしていると目が気になってくるのはそういう理由です。」
このとき、目がかすかに輝いた。納得した。肯定できたのである。

その説明から1時間が経過、本日3回目の治療に入る。この治療が最後、次回は1ヶ月先だ。証しがいる。さっき指導したことは正しいという、その証しである!
「いまこうやって寝てて、目はどうですか?」
「ずいぶんいいです^^」
当たり前ではない。薄氷を踏む思いで聞いたのだ。さらっと返してきた肯定の言葉、これをそれ以上追求しなかったのは血虚を考慮しての上である。
血虚があれば、ささいなことが気になる。そして気にすればするほど、頭がクルクル回転して血を消耗するのである。車の車輪もクルクル回転すればガソリンが消耗するのと同じである。しつこく追求されると、気にしていなかったことまで気になってくるものである。
昨日今日と7回やっても (穴処は全て関元一穴)、改善しなかった目である。最後の一本鍼を関元に打つ前、このタイミングで聞けば、あの話が正しいという証となる。毎回、どんな患者さんでもそう。僕がやったこと、僕が言ったこと、それが正しいかどうかは、目の前のお体が証しを立ててくれる。患者さん御本人が、肯定の極みである「笑顔」を出してくる。それが、正しかったという証しとなる。それを繰り返して僕はここまできた。
当該患者が肯定に転じたことで、邪気を排除しかねていた正気が排除に成功したのである。邪気を排除しあぐねて症状を出す体のことを否定せず、その応援に転じたのである。
もし、昨夜ホテルでまずまず眠れたことを僕と一緒に喜んでいたならば、目の痛みは簡単に取れていただろう。
肯定はスッといく。否定はギクシャク。そのギクシャクの摩擦が邪熱を生むのである。
逆に否定が必要なときの否定は、反省を生む。反省は鎮静である。邪熱が鎮静する。
可もなく不可もなく。人生の中でこれほど多く遭遇する状況はない。
そしてそれは、可にもなり、不可にもなる可能性がある。
これをどちらに動かすかは、その人がその状況を肯定的に捉えるか否定的に捉えるかにかかっている。
僕の仕事は…。
可もなく不可もなくという状況まで治療をして良くすることである。「悪い」ままでは話にならない。
そして肯定的に捉えて良いということを諭し、肯定的に捉えても何も損はしないということに気づいてもらうことである。
調子いいです。そう答えてもさほどの支障はないのに、そう答えると損した気分になる。それが人間というものだ。いくら僕に「悪くないですよ」と言われても「良い」とは言いたくない。
良くなったところは言わなくていい。悪いところをもっと強調したい。つらいのだ。それをわかってほしいのだ。かつての僕がそうだった。
しかしそのつらさは…、否定から来る。
可もなく不可もなく、という生命力の流れ。この状態で聞く。
「どうですか?」
「お陰様で大丈夫です」
そう返すことのできる人は、肯定への道を歩み、肯定的な結果にたどり着く人である。


もちろん良くないものを肯定してはならない。ちゃんと否定すべきであって、否定することによって症状が消える。だが、良くならない原因が、肯定できないところにあるという状態があるのだ。肯定できれば良くなる (良くなっていく) のに、それが出来ないために症状に苦しみ続けている人が意外にたくさんいることが分かってきた。臨床30年にして、分かってきた。
肯定してよいかどうか。臨床30年にして、それを診断する力量が僕に備わったのである。
その診断は正気スコアによって行う。