女性。高校2年生。陸上部。僕の娘。
2018年7月。
玄関の呼び鈴が鳴り、娘が陸上部顧問の先生に抱えられて帰ってきたのは、先日の土曜日、午後6時くらいだっただろうか。その日は陸上競技場で記録会があり、娘は早朝に出発していた。
顧問「5時ごろに競技で走って、終わってすぐにこんな風に…。暑さが原因で筋肉がびっくりしたんでしょうか…。」
熱中症をおこしたのか?
先生が玄関に娘を降ろし、とりあえず、クーラーの効いた部屋に入れようと、僕が抱きかかえようとしたときの様子は…
- 手足は完全に縄のように脱力し、首も動かせない。
- お嬢様だっこで持ち上げるが、娘の両腕は下に垂れ下がったまま。
- 体幹の筋肉も縄のように無力だ。
- 簡単に言うと、体のどこにも力が入らない。動かせない。
ただし、
- 普通にしゃべれる。表情筋は普通に動いているし眼球の動きも機敏。
- 呼吸も普通だ。本人は、僕を安心させようとしてか、笑っている。
- 首が動かないので目だけをキョロキョロ動かしている。
まず、脳裏をかすめたのが、筋萎縮性側索硬化症だ。まるでそんな状態なのである。これが治らなかったらどうしよう。
床に降ろすなり、「お茶ちょうだい」というので、身体をひっぱって僕にもたれさせながら、ストローで飲ませた。
救急の病院を探すよう妻に頼み、診察する。
診察
望診
天突に反応。≫表証を示す。
表証の診断については「l新型コロナウイルス偶感…流行の意味するもの…東洋医学的見地から」をご参考に。
脈診
数脈。
数脈について をご参考に。
左が沈位。右が中位。男脈。≫滑肉門・天枢・大巨のどれかに反応がある可能性。
幅なし。≫瀉法ができない。
寸口から尺位に向かう方向で、脈の推進力 (長脈) が観察できる。寸口外側から尺位内側にかけて長脈が観察できる。≫表寒を示す。
触診その他
皮膚が全体にやや熱い。検温すると、37℃台後半。無汗。手足は温かい。クーラーを止めてほしい、との本人の要望。悪寒がある。寝返りはできない。
腹診
空間診は臍の右上。
鳩尾に邪。≫右後渓・右神門に反応かある可能性。
中脘に邪。邪は梁門まで広がる。≫疏泄太過はない。
両不容の浅部に邪熱、深部にも邪熱。≫気分・営血分に邪熱がある。
両章門の浅部に寒邪、深部下方に邪熱。≫営血分に邪熱がある。
両少腹の浅部に気滞、深部に邪熱。≫瘀熱がある。
≫かなり広範囲に邪気がある、特殊な状態。
≫腹診で邪を表現しており、脈が無力なので、奇経 (陽維脈) の応用も考えられる。外関に反応ががある可能性。
治療
治療方針
まず、表寒証を除くことが大前提。無汗で身熱があるので、深部の熱が外に発散できていない。肌肉のすべてに強い邪熱が入ったので、運動神経が麻痺しているのだろうから、この邪熱を外に逃がす。邪熱が外に逃げられないのは、皮膚表面に寒邪があって、これが熱の発散を妨げているからである。魔法瓶は、表面が冷たくで中が熱いが、まさにこの状態だ。
以上の目的が達せられても、筋肉の無力状態が改善しないなら、即刻病院だ! 肌肉 (気分) の熱が取れなくてモタモタしていると、営血分の熱や瘀血が強固となって、後遺症を残す可能性がある。
選穴
右滑肉門・右神門・右後渓・右外関を探る。右滑肉門の反応が強い。
刺鍼
右滑肉門に0番鍼を1mm刺入、8分置鍼後、皮膚表面の邪気を払いながら、穴処を閉じる補法の手技を用いて抜鍼。
効果
- 数脈が落ち着く。
- 天突の反応が消失。
- 皮膚にかすかな湿り気が出てくる。
- 自分で手足を動かし、寝返りができるようになった。≫この時点で治療に手ごたえ。
「いまどう?」と聞くと「楽になった。涼しくなった。寒気がなくなった。」との返事だが、かなり眠そう。そのまま40分ほど熟睡する。≫昏睡状態ではないか、常に注意をはらう。
「とりあえず、先にご飯を食べよう。」
娘が寝ている間に、食事を始めた。緊急事態が起こった場合、すぐに動けるようにするためだ。
間もなく、娘が起き上がる。自分で立った!
「あー、おなかすいた。」
自分でご飯をよそい、お肉・味噌汁・キュウリの糠漬け・スイカを食べた。帰宅してから1時間30分ほど経過したころだっただろうか。
食後、すぐ就寝する。翌朝8時まで熟睡した。
考察
鍼をした理由
本症例を考える前に、触れておきたいことがある。
たとえば熱中症をおこして、鍼灸治療に来る患者さんはいないし、安全性・信頼性で問題がある。本症例も、熱中症を鍼灸で治療しますよ、と言いたいのではない。
ただ、僕は患者さんの大切なお体を預かる身だ。患者さんがどう思うおうが思うまいが、僕は患者さんの体をよくするために、全身全霊でぶつかる。治る、という信念がなければ、患者さんに対して申し訳が立たない。その信念こそが僕の中心なのだ。だから、自分の命よりも大切な娘を鍼で治療する。ただそれだけだ。
普段の臨床では、急性の危険な患者さんは少ない。多くは慢性的な疾患だ。しかし、慢性病を治す際にも、その過程の中に微細な急性の状態がある。これを見抜くことができれば、慢性病をより素早く治すことができる。そういう日々の積み重ねがあるからこそ、このような初めて出くわす急性の病態にも対応できるのである。
発症までの時系列
さて、本症例は緊急を要するケースだ。なので、詳しい問診はほとんどしていない。健康に復した後で、いろいろ聞いた。
- 身体に力が入らなくなったのは、午後5時に1500メートルを走った直後だった。ゴールして木陰に向かい、そのまま倒れこみ、10分ほど休憩したが、体を動かそうにも動かないことに気づいた。首を支えてもらい、先生におんぶしてもらって椅子に座らせてもらったが、腰からたおれる。本人曰く「目しか動かなかった」。
- この日の最高気温は37℃。最低気温は27℃。朝から暑かった。それ以前に、記録的な猛暑日・熱帯夜が続いている。特に最低気温の高さは異様だ。当日まで実に7日連続の熱帯夜。この地域では前代未聞だろう。
- 生理中だった。
- ケガ (交通事故) で長く出られなかったが、今回、久しぶりの大会。1500を全く走らぬまま、この日は数か月ぶりのぶっつけ本番だった。痛みが出ないかという不安があった。
- 周りで熱中症で倒れる選手がたくさんある中、規定ではこの気温なら途中で中止のはずであったところが、そのまま続行となり、不安とイライラがあったという。
- 持参した飲み物 (常温) が、途中でなくなり、自販機の冷たいお茶を飲んだ。
- 1500を走った直後から、汗が出なくなった。
病因病理
本症例は痿病 (痿証) である。痿病とは肢体に力が入らなくなる病気の総称で、筋萎縮性側索硬化症・筋ジストロフィーなどが挙げられる。急性の痿病は珍しいが、慢性の痿病の病因病理を紐解くうえで興味深い。
憶測だが、病因病理を考える。
まず、暑さ。猛烈な暑さは気を消耗する。気には色々な作用があるが、防御作用は大切な働きの一つで、外気の暑さ・寒さから身を守る。この働きが低下した。
気の6つの作用 をご参考に。
次に、生理。血を急激に消耗する月経中は、気血のバランスが不安定になりやすい。
東洋医学の月経って何だろう をご参考に。
加えて、精神状態。心には波風が立っていた。体内に起こった風は、外の風とタッグを組んで体内に入りやすくする。風邪である。
内風とは◀外邪って何だろう をご参考に。
そして、冷たい飲料水。急激な冷たい刺激は寒邪となりうる。これが先の風邪と結びつき、風寒の邪となる。1500を走る前に、風寒の邪がすでにあったとみる。これは、自覚には昇らないほどの軽いものであったとしても、あるとないとでは大きな違いがある。
その状態で1500メートルを全力疾走する。1500は、練習では走ってはならないらしい。400とかを何セットもする練習を積んで、試合の時だけ走るようにするらしい。それほど過酷な種目なのだろう。これにより、気血を短時間で大きく消耗する。また、体温の急上昇とともに邪熱をつくる。普通なら、この邪熱は病体がつくったものではないので、スムーズに発散され消え去るはずだ。だが、皮膚表面に張り付いた風寒の邪が、その発散を妨げる。短時間で強烈な邪熱が肌肉に蓄積した。肌肉はその機能を失い、全身麻痺となる。深部体温はかなりの高熱となっていたと推測される。
寒いと体が縮こまって固くなる。そんなとき、日光やストーブにあたると体が緩む。熱は柔らかくする働きがある。温寒邪は筋肉を固くし、熱邪は筋肉を弛緩させるのである。脳梗塞の麻痺・筋萎縮製側索硬化症・筋ジストロフィーなどに共通する病理である。
さて、邪熱が肌肉に入り、これによって肌肉の気は消耗した。しかし、生き残った気はバイタルを守るために、心・肺・脳などの中枢に集中し、この部分の気が侵されないように守った。これが、体は動かないのに、意識はしっかりし、しゃべりも正常だったことの内訳だ。
横紋筋融解症の可能性
後で調べて知ったことだが、熱中症で横紋筋融解症が起こることがあるらしい。本症例はこの可能性が高い。
ウィキベティアによると、
横紋筋融解症は、骨格筋を構成する横紋筋細胞が融解し筋細胞内の成分が血中に流出する症状、またはそれを指す病気のこと。重症の場合には腎機能の低下を生じ、腎不全により誘発される臓器機能不全を発症し、死亡する場合もある。
【要因】横紋筋融解症は、事故や負傷などの外傷的要因や、重度の熱中症、脱水、薬剤投与などの非外傷的要因や代謝性疾患などの内的要因によって骨格筋が壊死し発生する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/横紋筋融解症
【症状】疼痛、麻痺、筋力減退、赤褐色尿(血尿)。
腎不全症状による無尿、乏尿、播種性血管内凝固症候群、浮腫、呼吸困難、高カリウム血症、アシドーシス等。
横紋筋融解症の病理に基づいて、娘の病態を分析してみたい。
娘の場合、身体の深部温度が40℃に達し、骨格筋の高温・熱化・脱水による変性・壊死が差し迫る状態であった可能性がある。もうすぐ変性が起こり壊死に至るその直前で鍼治療を行い、そこで急激な解熱があったために、骨格筋が元の機能を回復した。もし、鍼治療による効果が見られず、病因搬送などの時間的ロスがあったならば、ほぼ全ての骨格筋の高熱状態が持続し、変性・壊死に至り、かつ筋肉内の成分であるミオグロビン (赤色) が溶け出して血管中に染み入り、赤褐色尿 (ミオグロビン尿) が排泄されるに至った可能性がある。
しかし娘の場合、小便は翌朝まで出なかったが、その朝に出た小便は普通色だった。速やかに邪熱を取り去ることができたからかもしれない。
全身の強度の麻痺であっただけに、これらの骨格筋がすべて変性・壊死に至ったならば…。
そう考えるとゾッとする。
スムーズな回復の理由
本症例の病態をかんたんにイメージすると…
- 寒邪が皮膚表面に居座る。=表証
- 猛烈な暑さの中、全力疾走。=内熱
- 熱を閉じ込め、魔法瓶状態になる。
速やかに元の健康状態に復した機序をイメージすると…
- 滑肉門の補法で、表証を取り去る。
- 魔法瓶状態が解除となる。
- 普通の容器に入ったお湯は自然と冷める。
頚部以下のすべての肌肉を犯した強い邪熱は、このようにしてすべて瀉し終え、消え去ったのである。
滑肉門の意味
滑肉門を表証に用いるのは、名医・藤本蓮風先生に教わった。
滑肉門は陽明胃経に属する。脾胃に効くのだ。
桂枝湯としての意味
自分なりに意味づけすると、滑肉門には桂枝湯 (太陽病) あるいは桂枝加芍薬湯 (太陰病) の意味が含まれる。太陰病の薬である桂枝加芍薬湯は、そこに桂枝湯を内包している。太陰病の薬が太陽病に効く要素を持っているのだ。正気を補わねば虚証は治らない。表虚証も虚証である。これがわかっていない人が多い。
桂枝加芍薬湯… 桂枝湯 + 芍薬三両
しかもこの桂枝湯 (滑肉門) は、太陽中風に用いる桂枝湯ではなく、二陽併病 (48条) に用いる桂枝湯 (44条) である。私見であるが、合病 (同時発病) とならずに併病 (時間差発病) となるのは、そもそも正気のくたびれがあるからである。本症例の無汗は、桂枝湯証が否定される無汗ではなく、陽明病としての無汗である。
傷寒論私見…44条の法則〔44〕 をご参考に。
傷寒論私見…二陽併病〔48〕 をご参考に。
空間論的な意味
陽明胃経の穴処である滑肉門は、脾胃・営血を高めつつ、空間的には前上を補って、後上を瀉す働きがあると考えられる。傷寒論に “頭項強痛” とあるように、風寒は「風府」「風池」「風門」などの穴処を中心とした後上から入り、そこを拠点として全身の表 (皮毛〜肌表) を犯す。
開闔枢を整える意味
滑肉門にもうすこし私見を加える。
本症例は男脈を呈していた。男脈とは「難経」が出典である。
脈診で “体の声” を聞く をご参考に。
男脈・女脈は、性別と逆の脈が出た場合、邪気の除去ができない。つまり、太陽に開くこともできず、陽明に闔じることもできない。このとき、鍼灸でもっとも適応する穴処は四霊 (滑肉門・天枢・大巨) である。
男脈・女脈を調整すると、それだけで開闔枢が正常に働く。外感病に四霊 (滑肉門・天枢・大巨) が使われるのは、こういう機序もあるのではないか。
本症例では滑肉門一穴で腹診のすべての邪が取れた。これで邪が残るようだと、このような急激な回復は難しかったかもしれない。特に営血分の反応が不気味だ。すみずみまで邪をきれいに取ることができるという確信はなく、「この鍼で営血分まで取れてくれ!」というのが正直なところである。はじめて出くわす病態に対し、祈るような気持ちで鍼をした、ということだ。
〇
ちなみに、この日の大会は県レベルのもので、娘は全体の10位だったらしい。すごい。よく頑張ったな。