現在、治療所移転のための改装工事が大詰めを迎えている。いろんな業者さんが出入りされる。指揮してくださる方、建設工事の方、電気工事の方、水道工事の方、クロス工事の方、カーテン設置の方、そして看板設置の方…。
患者さんではない、一般の方との触れ合う機会が多い。しかもみな、それぞれの職種のプロフェッショナルである。
みなさん、ニコニコと仕事をしてくださる。一生懸命に向き合ってくださる。僕が予想するものを超えて、生き生きと作ってくださっている。もちろん「段取り」が関わるので、ある意味で僕との取っ組み合いでもある。ときには火花も散るのである。にも関わらずなのである。
治療も同じである。
僕は患者さんの願いをかなえる側、患者さんは僕にいろいろ求める側である。ある意味で取っ組み合いだ。
過去の僕は、患者さんの病める部分やその原因にばかりに目が行った。そこばかりジッと見ていた。必然的に「あれダメ、これダメ」となった。患者さんの表情が暗くなる。そういうことだ。治せなかったのである。
今の僕は、その頃とはそうとう成長した。ほめるところはないか、常に注視している。探している。ほめることで成長する。すると患者さんの「病む原因」が改善されていく。自分の悪い部分に向き合い出すからである。
もちろん、ほめられないところは決してほめない。悪い要素を生んだときは注意を与える。しかしそれは極まれである。「すごいやん!」ってところが、どんな人にも必ずある。それを見つけよう見つけようとしていると、やがて患者さんは「悪い要素」(邪気) を生み出さなくなっていくのである。
良いところを見つけたときは感動がある。その感動をそのまま表現する。ぼくはもともと天然だ。というか「うれし」である。だから無邪気に、何もはばかることなく喜ぶ。そんな僕を見て患者さんが引こうが驚こうが、そんなことはどうだっていい。
僕自身が成長した。診察によって、確信をもって喜べるようになったのだ。患者さんが成長しているかどうか。それがだんだんハッキリと見えるようになってきたのである。それを言葉にする。ほめる。それは患者さんを大きく成長させる。成長あるところ、必ず生き生きさがある。生き生きさこそが健康なのだ。数値に異常がないのが健康ではない。


考えてみれば、僕を取り巻く環境の中には、ほめるべきものが満載である。まずここにある空気だ。
すごいやん! これを吸うとすごく楽やん! …しかし注視していないとそれには気付けない。否が応でも気になるのは、今日は嫌なことがあった、辛いことがあったということばかりとなる。ダメなところばかりが目に付く。これじゃ生き生きできない。
患者さんという依頼主、僕という治療のプロフェッショナル。
いま、それは逆の立場にある。建設現場では、僕が素人、相手はその道のプロ。
ただし、僕のスタンスは変わらない。
治療所が仕上がりつつある。それは当たり前ではない。仕事をしてくれて当たり前ではない。
真心があるから、仕事をしてくださるのだ。

「僕ら、そうやって喜んでもらうのが一番うれしいんですわ!」
「ほめてもらったのがすごく嬉しくて。僕らにできる事って知れてるから…」
真心しか感じない。
みなさん、ものすごい真心を持っておられる。
いや、この方々ばかりではない。そもそも人間には、輝きたくてしかたない宝石が秘められているのだ。
患者さんの中に常に見ているそれが、そうでない人の中にも。
分かりきったことではあったが、この工事期間中で見せつけられた。
いろんな方々と次々に出会いがある。
患者さんしかり。業者さんしかり。
その方々それぞれにその宝石がある。
その輝きが四方から照らしてくる。
みんなに囲まれて、みんなにいい治療所を作ってもらうのである。