定期的に診ている患者さんである。リウマチの変形 (膝・足) があるが、ここ数年は痛みもなく症状は落ち着いている。
「落ち着いていけてるようですね。変わったことは特にありませんか。」
「はい、大丈夫です。あ、おとといホントに久しぶりに右手首が痛くなって、それは一日だけのことで、もう大丈夫なんですが、ああやっぱり私はリウマチなんだなあ…と改めて思いました。昨日は雨が降ったので、これはリウマチの宿命で仕方ないのかなあって思うんですが…。」
「痛みが出たのは、雨の日ではなくて、雨の前日ですね?」
「はい。」
「雨の日に痛いのは痰湿が原因です。雨天日の湿気で、それが体に少し影響するんですね。でも雨天前の痛みは湿ではなく、落差です。落差とは気圧変化です。たしか、おととい (雨天前日;痛みが出た日) は、晴れてたけど強風が吹いていましたね…」
と言いながら、行間のツボの反応を診る。左に実の反応がある。
「うん、やっぱり反応がでていますね。ちょっとスピードが出すぎています。毎日の生活のスピードですね。これが今10だとしたら8くらいに落としましょうか。」
「今ね先生、ぜんっぜん何もやる気になれないんです。鬱かと思うくらいに…。」
……ん? バタバタ動きすぎている (スピードが出すぎている) わけではない?
「でも手首が痛くなった前日 (さきおとつい) だけは、なぜか急にやる気になって、一日中家の片付けをしたんです。」
……ああ、そういうことか。
「なるほど、その日だけスピードが出すぎちゃったんですね。明日は気圧の落差で強風が吹くという前日に、体がそれを察して、あおられるように興奮状態 (スピードの出過ぎ状態) になっていたということでしょう。これからはね、急にやる気になってもその日は何もやらず、翌日もやる気が持続していたら、片付けをやりましょうか。」
この時点で、左行間の反応は消失した。当該患者が正しい考え方を持ったからである。急に体調が良くなったから片付けるという考え方は間違いなので手首の痛みが出た。急に体調が良くなっても一日見合わせるという考え方は正しいので行間の反応が消えた。行間の反応を残しておけば、また気圧変化で痛みが出るところだった…ということだ。
何もできないときは充電していると思えばいい。それが急にできるとなったときは風邪 (ふうじゃ;気圧の落差) で興奮しているのだから、その日はいつもどおり何もせず、翌日になってもやる気があればやればいい。やる気がまたなくなったら、昨日のやる気は “ウソのやる気” だったと分かる。やる気になってもすぐにアクセルを踏み込まずに、しばらく安全確認をしなさい、ということである。
天候はコントロールできない。できるのは、正しい知識を持つことである。たったそれだけのことで、根本的原因を除去できていることが分かるだろうか。
とくに春先は強風が吹きやすい。季節の変わり目とは気温の変わり目である。気温の変わり目には必ず強風が吹き、空気が暖かくあるいは寒く入れ替わる。その時にリウマチなどの関節痛が酷くなるのは偶然ではない。
「なるほど、そういうことだったんですね。すごくよく分かりました、そうします! でも、すごいですね…。」
そうである。行間が示す「スピードの出過ぎ」とは、たまたまその日に限って一日中片付けをした…という当該患者以外誰も知らない事実と合致したのである。これは、MRIでも血液検査でも見えてこない “原因” である。
行間の切診は、疏泄太過 (スピードオーバー) の有無を診るための一つの手段である。もともと疏泄太過があってリウマチを発症した。だが、疏泄太過は下火となりリウマチは影を潜めた。ただし、気圧の大きな変化があって強風が吹こうとする前日のみは、風にあおられて火の勢いが増すようにスピードが出てしまったのである。
ツボには一つ一つ特徴がある。たとえば食べ過ぎがあれば足三里に、夜ふかしがあれば照海に、冷たいものを摂りすぎていれば陽池に反応が出る。これらの意義付け (法則性) は、すべて臨床の中で自分で見つけ出したものである。
そして、あらゆる臨床場面で、これら意義付けを徹底的に試してみる。指導を行いながらも丁寧に問診し、合うのかどうか。合わなければその意義付けはやり直しである。何年経っても残っているならば、それは正しい意義付けとなる。
これが “歴史的淘汰” である。東洋医学とは、不要な考え方をふるい落とし、数千年かけて有用なものが集結したものである。
スピードの出過ぎ=行間。
鬱かと思うくらいに何もできない…と聞いたときは「ん?」となったが、強風の前日のみはスピードが出過ぎていたのである。これは行間に対する僕の意義付けと符号する。
風邪。肝。☴巽風。
これを体現するツボの代表が行間であるという意義付けが、今回さらに強化された。