72歳。女性。2020年4月初診。
他の治療をことごとく拒み、当院の治療のみで経過を観察している。
左の季肋部からヘソ左方まで、硬い腫瘤がある。脾腫である。肋骨弓より下に10cm以上にわたり脾臓を触れる場合を「巨脾」というが、まさにその状態である。
週に2回の治療で連休をはさみ、今日が8診目である。
ここまでの経過
1・2診目はいずれも右外関一穴に古代鍼 (かざす鍼) である。3診目からは刺す鍼を用いている。5診目で神闕、7診目で左帯脈を用いた以外は、すべて右外関である。本症例は進行したガンであり、虚〜虚実錯雑である。外関は奇経に属し虚実錯雑に対応しつつ、陽維脈に属し夏場の陽の器を増しつつ邪熱を正気に変える。
- 初診時は歩行時の息切れがあったが、2診目以降 消失。
- 初診時は左脇下〜背部にかけての痛みで、寝返り困難であったが、4診目から痛みはあるものの普通にできるようになった。
- 初診時は胸悶・上腹部膨満感があったが気にならなくなった。
初診時は、左厥陰兪の虚が20cmの大きさに達していた。徐々に小さくなり、現在は完全に消えた。
左厥陰兪の虚は、表証を示す反応である。あらゆる難病は表証が改善にストップをかけている。表証は体を動かしていると治らないからだ。ガンもその類にもれず、この反応が見られる。ひどい場合は腰にまで達する場合がある。早々に息切れが消失したのは、この反応が消失するという変化があったからだ。今は、いっしょに歩くとご主人の方が息切れしてるらしい (笑)
表証…カゼ (風邪・感冒) を治す意味 をご参考に。
症状
5月16日から梅雨入りした。16日の午後から降り始め、それから晴れ間なく、5日間、断続的に雨が続いている。その雨降り5日目の日の診察。この日は多くの患者さんの体に雨の影響が出ていた。
当該患者も、初診以来おさまっていた胸悶・上腹部膨満感を訴えられる。
「今朝から、この辺がしんどいんです…。」
胸〜心下〜胃脘部まで苦しい。苦悶の表情。
雨の影響が疑わしい。それを意識して診る。
診察
- 少商に左右とも実の反応…肺気が急性に阻遏されたことを示す。ストレスによらない滞りである。
- 太衝に左右とも実の反応…肝鬱気滞がある。ストレスによる滞りである。
- 行間に左右とも実の反応…左のみに出るのは通常だが、右にも出るのは内風 (下に説明) を示す。
- 足三里に左右とも実の反応…食欲がない可能性がある。
「食欲は?」
「今朝はなかったです。昨日は普通でした。」
足三里の反応が取れれば胸悶・上腹部膨満感が取れると診た。
- 豊隆の反応が小さい…直近での内湿 (食べすぎ) の影響は否定。
- 足三里に虚の反応なし…直近での飲食養生の改悪はない。
「食べすぎ・間食、よく気をつけてるなあ。えらい! 今の努力で行けてるから、続けてくださいね。今日調子悪いのは、〇〇さんが悪いんじゃなくて、まだ5月なのに雨続きのせいだから。」
病因病理
もともとストレスによる肝鬱気滞がある。肝鬱気滞は常に血に負担をかけ、血の潤いをなくした心には波風が立ちやすい。いわゆる血虚生風である。こうして生まれた内風は、外界の風邪 (風雨) とタッグを組んで、気機を阻害する。急な天候変化は気候の波風である。
外邪って何だろう▶風邪とは をご参考に。
気候変化の影響から身を守るバリア (衛気) はシッカリしている。これは左厥陰兪の反応が消えていることから、そう言える。ただしバリアはしっかりしていても、バリケードの継ぎ目にはわずかなスキマが生じる。このスキマは、心の波風によってできるのだが、このスキマを使って、外の波風と内の波風とが連絡を取り合う。 結果として外の風湿が気滞を生む。
すなわち、急に肺気がまず滞り、それが脾気・胃気に波及して胸悶・上腹部膨満感が出たものと診た。
心の波風とは…喜び過ぎ・怒り過ぎ・考え過ぎ・悲しみ過ぎ・恐がり過ぎ
などで起こる。
怒傷肝.…喜傷心.…思傷脾.…憂傷肺.…恐傷腎.<素問・陰陽応象大論 05>
「波風はいっぱいありますわー。」
「どんな?」
「主人のこと (笑) 」
「なるほど、それやなー。」
上記の説明をすると同時に、左右少商と右行間の実が消えてしまう。患者さんが「なるほど」と思った瞬間に、体は改善するのだ。また、病因病理の仮説、診断が正しかった確認にもなる。
「なるほど」とは、ご主人に対するストレスを “成長” に変えようとした瞬間である。自分の悪いところ (病根) を認め、改善しようとした証しである。
雨の影響、といえば、まず食べすぎによる内湿 (痰湿) をイメージするが、そうでない場合は意外とあるのだ。これは自慢だが、当院の患者さんは、みんな食べすぎに関して優等生なので、内湿によるものは ほとんどない。
ストレスは咀嚼・消化・吸収すれば心の栄養になる。苦労した人でないと人徳は得られない。心は一生成長し続ける。それが自然な姿であり、その自然の上に健康は乗っかる。健康は自然なのだ。この膨満感は消化しきれていない姿である。自然の「雨」がそれを浮き彫りにし、 “こんな良くないのがあるよ” と教えてくれている。
ストレスの消化吸収については、東洋医学の「脾臓」って何だろう をご参考に。
治療
右外関に2番鍼3mm刺入。5分置鍼。
抜鍼後、上記のツボの反応がすべて消失していることを確認する。
「今、このへんのしんどさ、さっきといっしょですね?」
「はい、いっしょです。」
「 (胸のあたりに手をかざして) この辺が今、すこしスッとした感じがあってもおかしくないんですよ。もし、それがあったら、それをよく感じてみてください。もう後10分休んでもらいますね。」
別の患者さんを治療していると向こうの方から、ゴボッという音が聞こえてきた。何かあったかな…。
〇
10分の休憩が終了する。
「しんどいのは今、どうですか。」
「なくなりました。大きなゲップが出ました。」
「そういえば、なんか音がしてたな。…え? この姿勢 (仰向け) で出たの?」
「はい、この姿勢で (笑) 。それでスッキリしました。」
ふつう、ゲップは仰臥位では出にくい。
ケップ (気滞) を押し出す強烈な力が働いたのだ。
ガンは重篤ではある。しかしこのように良い方向に、体は力強く反応している。
「こういう天気とかストレスとかで波はあるけど、全体としては良くなってると僕は勝手に思ってるんですよ。」
「ありがとうございます。あと5年でいいから。後始末もしたいし。」
「運動会のかけっこ、あるでしょ? あれ、ゴールまでって思ってたらダメですね。最後で抜かれてしまう。ゴールのテープのもっと向こうにゴールがあると思って走ると、うまくいく。だから ここまで、って決めないほうがいいな。人生200年やで? ぼくはそう思って生きてる。しかも、今日死んだっていい。そう思ってて、そうならなくても、別に損したわけでもないでしょ? 得にはなってもね。ゆうゆうと成長していきましょ。成長し続ければ体は悪くなんかならないですから。」
成長し続ける限り樹木は枯れない。大自然は大きな示唆を我々に与えてくれる。成長し続けることは自然なことだ。そして健康もまた、自然なことにちがいない。
脾腫について
当該患者に見られた「脾腫」について。
白血病の分類
まず白血病は、急性白血病と慢性白血病に分類され、脾腫は、そのいずれにおいても見られる。
急性白血病と慢性白血病は、それぞれ骨髄性白血病とリンパ性白血病に分類される。
「リンパ性」とは、リンパ系幹細胞に由来する血球異常による白血病である。
「骨髄性」とは、骨髄系幹細胞に由来する血球異常による白血病である。
脾臓の役割
これら白血病では、脾腫がしばしば引き起こされる。
その理由を考える前に、脾臓の役割から説明する。
- T細胞やB細胞を成熟させ 、抗体を作る。(白脾髄) …リンパ節のリンパ小節に相当
- 血小板 (全身の3分の1) やリンパ球を貯蔵する。 (赤脾髄)
- 古くなった赤血球 (血小板も) を脾臓のマクロファージが壊す。老化赤血球を濾し取る。細菌を濾し取る (リンパ節のリンバ洞に相当) 。 (赤脾髄)
- 脾臓には全身のリンパ球の約4分の1が集まっているため、ある意味人体最大のリンパ節とも言える。
脾腫の原因
このように、脾臓はリンパ球を成熟させる場でもある。血液細胞をつくる骨髄がガンに侵されると、「できそこないの血球」が大量に作られ、「できそこないのリンパ球」も大量に作られる。そのようなリンパ球が全身をめぐり、「成熟」の場である脾臓にも到達し、そこで「増殖」を始める。たくさんのリンパ球を抱えた脾臓は腫大し、脾腫となる。
脾腫が起こる原因は、白血病のほかに、以下の病態が挙げられる。
- 肝硬変:脾臓のなかの血液は脾静脈を経て門脈に合流し肝臓に達するが、肝臓がパンパンになって血液が入り込めないと、もともと伸縮性のある脾臓は膨らんで脾腫となる。
- 感染症:リンパ節には、病原体などの異物 (細菌・ウイルス・がん細胞など) をこし取り処理するはたらきが働きがあるが、異物が流入すると免疫応答によって発赤腫脹を起こしてリンパ節炎を起こすことがある。これと同じように、大きなリンパ節である脾臓も同じ現象が起こり、脾臓が膨らんで脾腫となる。
他の白血病症状
白血病で
- リンパ節腫大が起こるのは、脾腫と同じ病理である。すなわちリンパ節は脾臓と同じくリンパ球を成熟させる場であるからである。
- 激痛が起こるのは、骨 (骨髄) が「できそこないの血球」でパンパンになるからである。血球は骨髄 (赤色骨髄) で作られ、赤色骨髄が存在するのは脊椎・肋骨・胸骨・骨盤・肩甲骨・頭蓋骨・鎖骨・長管骨 (上腕骨・橈骨・尺骨・大腿骨・脛骨・腓骨) 骨端部である。これらすべてで痛みが生じる可能性がある。
- 膨満感が起こるのは、脾腫が消化器を圧迫するからである。
- 貧血・免疫低下・青あざ (出血) がみられるのは、以下の理由が挙げられる。
・骨髄で正常な血球 (赤血球・白血球・血小板) が作られなくなる。
・脾腫によって脾臓が大きくなった分、血球をたくさん蓄えることになる。すなわち、血球が大きな脾臓に大量に囲われてしまうのである。結果として循環血中の各血球 (赤血球・白血球・血小板) が少なくなる。
リンパ系とは
リンパ系とは、リンパ器官 (リンパ管とリンパ組織) からなる巨大なネットワークである。
リンパ組織
リンパ管を説明する前に、リンパ組織とは何かを明確にしておこう。
リンパ組織は、一次リンパ組織 (リンパ球が作られる組織) と、二次リンパ組織 (リンパ球が免疫を行う組織) に大別される。
一次リンパ組織には、骨髄・胸腺が挙げられる。
二次リンパ組織にはリンパ節・脾臓・扁桃腺・小腸のパイエル板などが挙げられる。
つまり、脾臓は二次リンパ組織に分類される。
リンパ組織はリンパ管の走行過程にあるとは限らない。リンパ管の走行過程にあるのはリンパ節だけであると考えてよい。
リンパ管
リンパ管とは、リンパ液を通す管である。
リンパ管は、起始部を全身の毛細血管の隣接部に存在する毛細リンパ管に発し、徐々にまとめられ太くなり、最終的に胸管と右リンパ本幹と呼ばれる2本の管となり、左右の鎖骨下静脈に注ぐ。
リンパ液は組織液
リンパ液とは。
全身の各細胞は、血液中の血漿が毛細血管の壁から滲み出た液 (組織液また間質液とも) から栄養 (タンパク質や酸素など) を受け取る。組織液に混じった栄養を食べた各細胞は、人間が大小便をするのと同じように老廃物や二酸化炭素を出すが、それらはこの組織液のなかに排出される。栄養と老廃物の交換が行われた組織液は、大部分が再び毛細血管に戻り、心臓や肝臓に運ばれる。
しかし毛細血管から滲み出た一部の組織液は、毛細リンパ管に入り、リンパ液と名を変えて鎖骨下静脈に向けて流れていくのである。
リンパ液はリンパ球を多量に含む
リンパ球もリンパ管内に多数存在する。骨髄で生まれて血管を流れるリンパ球は、血漿のようにリンパ管に染み出す形をとらず、リンパ節に直接入る血管を通じてリンパ管に入る。
通常、赤血球・顆粒球・血小板は、組織液として滲み出せず、よってリンパ管に入れないが、外傷などで炎症が起こると血小板や顆粒球は血管壁を通り抜けて、炎症部位に達し、止血したり細菌を殺したりする。赤血球も染み出すことがあり、その場合は血がにじむ。
このように、リンパ管を流れるリンパ液は、組織液 (血漿由来) とリンパ球によって構成される。
リンパ節
リンパ節は、リンパ管の合流部に点在するリンパ組織である。血管からリンパ節にリンパ球が流入し、またリンパ節で成熟したリンパ球が多量に存在する。
- 細菌、ウイルス、がん細胞などを堰き止めて濾し取り、それらを殺す場となる。
- リンパ球が成熟する場となる。
考察
本症例は左季肋部から臍の左側まで脾腫が触知され、巨脾と呼ばれるレベルのものであった。しかしリンパ節の腫脹は見られず、体の痛みも皆無であった。
がんに侵されたリンパ球が増殖したことのみが当該患者の脾腫の原因であるならば、リンパ節や骨髄でも増殖が起こるはずで、それが見られなかったということは、他の要素も考慮に入れるべきである。
つまり、「隠れた肝臓の線維化」などが門脈や脾静脈の圧力を高めることによって脾腫が起こった側面もある可能性がある。門脈圧が亢進し、それに連なる小腸・胃に滞りが起こり、胸悶 (胸〜心下〜胃脘部の苦しさ) が生じたのではないか。もちろん脾腫による圧迫による胸悶がベースとはなるが、鍼治療によって瞬時に症状が取れたのは、器質的回復ではなく、機能的回復が速やかに認められたからであろうと思う。
肝臓・小腸・胃を一繋がりとみて機能回復させることにより、速やかなゲップ (邪気としての気滞の排出) がみられ症状の緩解につながったものと考えた。
〇
2023年7月3日、お中元を届けてくださった。初診から3年を経過し、本人も驚くほど元気である。いろんな人に頼りにされて忙しくしている。
あいかわらず血小板は少ないが、赤血球も白血球も正常値である。