いつも言うことですが、どれだけ効いているかを醫者が実感していることが大切です。その実感がリアルであればあるほど、ありえないような効果が出てきます。
特に、初診はありえないような効果 (奇跡) が起こりやすいですね。イメージとしては大鉈をふるう。雑草を薙ぎ払う。誤った生活習慣を否定し、矯正する。初診は強い思いをもって受診される患者さんが多く、その場合は生命力を邪魔する気 (邪気) はすでに崖っぷちまで追い詰められており、ほんの少しのアクション (補法であれ瀉法であれ) で取り去ることが可能です。つまり瀉法として効きやすい。見た目には派手な効果が現れます。
そういう取れやすい邪気が、ある程度取れてしまった2診目以降は、もう派手な効き方はしなくなり、ゆっくりと改善していきます。少しずつ生命力 (正気) を補い、取れにくい深いところに陥った邪気を少しずつ浮かして、浮かしては取り浮かしては取りを繰り返します。イメージとしては、小刀で調整していく。雑草を取り除いた新しい土に種をまき芽を育てていく。補瀉という陰陽で見ると、明らかに補法です。
初診は、養生指導を徹底して行います。あれダメこれダメと脈診で体の声を聞きつつ細かく指導します。否定です。さらに、あらゆる例え話を用い、患者さんが納得するようにわかり易く説明します。とくに、大自然のありようと重ね合わせて説明すると、患者さんが涙を流されるほどの感動を与える場合があります。そういう場合は、患者さんは強く「先生の言うようにやってみよう!」という気持ちが揺さぶられており、その場で症状の大きな改善がみられることがあります。
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ただし、2診目以降はそれを続けてやりません。というより、続けてやる必要がなくなります。
その養生を、患者さんができるだけやっているかどうか。100点である必要はない。合格点でありさえしたらよいのですが、その合格点に達しているかどうか。これは、患者さんに聞けませんね? 盛って答えられても謙虚に答えられても、誤診につながります。だから、こっちが見抜かなければならない。レントゲンとか血液検査とかと同じです。これを僕は、短期邪気スコアという僕独自の物差しで見抜きます。このスコアは、問診情報をいっさい用いません。
そうするとどの患者さんも、99%の確率で「合格」と出ます。もちろん長期邪気スコアは異常値なのですが、ここで重要なのは、ここ2〜3日の間の生活の不養生であり、「新しい邪気」を生み出したかどうかなので、とりあえず短期邪気スコアのみを重視します。
新しい邪気を生み出していなければ、生命力 (自然治癒力を含む) は常に体の掃除や整理整頓をしようとしているのですから、新しい邪気を掃除する必要がないので、古い蓄積の掃除が必然的にはかどるという状況となります。これが先ほどいう
“少しずつ生命力 (正気) を補い、取れにくい深いところに陥った邪気を少しずつ浮かして、浮かしては取り浮かしては取りを繰り返します”
ということにつながります。
“少しずつ生命力を補う”
これを鍼でやる前に、もっともっと補っておきたい。それにうってつけの方法があります。「肯定」です。2診目以降の患者さんには、短期邪気スコアが合格であることを診断したうえで、このように声を書けます。
「新しい痰湿は生んでいません。つまり、ここ2〜3日の食べることに関する努力はこれで合格です。また、新しい邪熱も生んでいません。オーバーヒートしないコントロールがこれで合格です。つまり、何一つ悪いものを生み出していない。かわりに出来ていることは、古い蓄積 (長期邪気スコア) の掃除、整理整頓です。これが今、はかどっている状態であることを強く意識してください。」
肯定する。これでいいと。
それによって、腹診が大きく整います。下腹部 (臍下丹田) に力が満ち、上腹部の緊張が緩みます。それは瞬時の変化です。さらに鍼を打つと、それがさらに整います。
これが、 “どれだけ効いているかを醫者が実感すること” である。
ただ肯定しているだけでは体は反応しません。オベッカだと見透かしているのです。切経の技術を磨き、食養生や起き伏しの養生などが生命の許容する範囲内で行われているかを見抜く。それが合格ならば患者さんに伝え、「これでいい、大丈夫。」という肯定を与える。見抜けているという実感が強ければ強いほど、その言葉には力 (自信) が宿る。患者さんは勇気 (正気) を得て、腹診所見が大きく改善するのです。
“これでいい、大丈夫” と声をかける場面でも、症状が騒がしい場合はもちろんある。そんなときは、
「気になる症状があったとしても、それは片付け者をする際にいったん散らかるという現象なので、あたたかく見守ってあげてください。子供が押入れからモノを放り出して整理整頓しようとしているのに、 “こんなに散らかさないでよ” なんて言ったら、片付けられなくなりますね。そうじゃなくって “ありがとう、助かるわ” と声をかけたら、4〜5日もかかる片付けが1日で済んでしまうかもしれません。治療は、それをさらに短縮する力をもちます。」
この瞬間に症状が軽減あるいは消失することも珍しいことではない。あるいは次回来院時にはよい問診結果が得られるものである。こうして、落ち着きのない患者さんが、徐々に落ち着いてゆく。落ち着きがない人が治らないのは、臨床家ならば誰しも知るところだろう。落ち着き=陰である。
病気になるのは、それまでの舵の切り方が間違っていたからです。それを正す (否定する) のが醫者の仕事です。そして一朝、患者さんが正しい方向に進みだしたならば、それを全力で肯定するのです。
それが出来るためには、正しい方向に進んでいるかどうかの診断が不可欠で、ぼくはそういうマネ事がやっと出来かけたのです。「患者さんの意識」を臨床のマナイタに乗せるという目標を立てて取り組んで20年になるが、バカみたいにそれを一途にやってきて、やっと出来たのです。
やっと出来た。
患者さんを「肯定」する。
20年間、否定を正確に研ぎ澄まし、やっと正しく肯定できるようになった。
この肯定とは、まさに無為自然です。「然」という字は「肉と犬 (食べ物) 」「灬 (火) 」からなります。食べ物を火にかけると、軟らかくなり食べやすくなります。これは、消化して吸収し、それが血となり肉となるという、非常に肯定的な成り行きを示すと考えています。人為的な策を練らなくても、自ずと肯定的な結果になる。
病気が治りきらないのは、この「肯定力」が足りないためである…という所にたどり着きました。ただし、肯定力を持つためにはまず、人事を尽くす (養生を尽くす) ことが前提です。なすべき努力もせずに肯定しては、ただの気休め・思い上がり・勘違いになってしまいます。
人事を尽くせているかどうか。この合格ラインを大自然 (人体) は、我々が思っている以上に、はるかに低く設定しているというのが実感です。こうあるのが理想だという知識さえ持てば、そして、それに向かって1mmでいいから近づこうとする気持ちさえあれば、それですでに人事は尽くせている。それで合格。100点でなくていい。
否定ばかりする人は、破壊しかできない人です。
真に肯定できる人は、真の評価ができる人です。
まとめてみましょう。
醫者としてなすべきことは、
- この大自然が求める正しい努力 (理想) とは何かを明確に認識し、養生指導を行う。
- その理想に届くことに価値があるのではなく、植物のように1mmという「成長」にこそ価値があるという知識を、まずは与える。
- 次回の診察では、その「1mm」があるかどうかを診察 (切経) から見抜く。
- もし、その1mmがなければ、何が足りないのかを診察で見抜き、再び養生指導を行う。
- もし、その1mmがあれば、何もかもがうまく行っている。その過程に、現在の状況はある。たとえ辛いことがあっても、それは産みの苦しみである。以上の肯定を与える。
初診は徹底した指導 (否定) が重要となる。しかし2診目以降はほとんどの患者さんに「1mmの成長」が見られ、よって肯定の方がはるかに大切となる (肯定を必要とする機会が多くなる) 。
なお、指導 (否定) も肯定も、速やかな所見改善が見られる点において差はない。ただし、改善する姿には瀉法的・補法的な差は自ずと見られる。
今の到達点です。
ただし、邪気を取るときほど症状は急には取れない。しかし、日数が経つにつれて、症状が安定してくる。患者さんの表情も落ち着いてくる。やはり補法によく似ている。