生後半年の赤ちゃんが寝返りを打つのは、生後まもなくの彼から見れば奇跡である。しかし、寝返りを打ってしまえば、その赤ちゃんはもう驚きもしない。ふつうに寝返りを打って当たり前だという顔をしている。ハイハイできた時もそう。つかまり立ち、よちよち歩き。出来る前の彼からしたら、それはいつも奇跡。でも、その奇跡を起こしてしまえば、もうありふれた日常である。
臨床もそうだ。下リンクに上げた症例は、この奇跡を起こす前の僕から見たら奇跡そのものだった。しかし、起こしてしまえばもう淡々としている。そして、さらなる高みにそびえる奇跡を起こそうと、目線をそらすことはない。
そうである。寝返りの次は、ハイハイ。ハイハイの次はつかまり立ち。いつか、広々としたフィールドを全力で駆け抜けてやろう。
そうだ、夢がある。その過程にぼくはいる。結果などどうでもいい。届くことのない過程、それが成長だ。
臨床 (仕事) だけではない。日々の生活でも、これが伴っていなければならない。成長する草木は幹だけ伸びるのではない。葉っぱも、蕾も、それに伴って成長しているではないか。
赤ちゃんを見ているとよく分かる。できなくても、決してあきらめない。なんども、なんども寝返りを打とうとする。立とうとする。歩こうとする。尻餅をついて、頭を打って。なんども、なんども泣きわめきながら。その無様さこそが原動力だ。そのなかで、コツを掴むのだ。いくつも、いくつも。泣きわめくたびに。
下に貼ったリンクにも公開したそのコツは、その不屈かつ無様な努力を同じくした人でないと分からないとは、至極当然のことである。

