督脈とは《前編》…流注をまなぶ の続きです。
▶督の字源
督とは、そもそもどういう意味を持つのでしょうか。
督.察也.一曰目痛也。《説文解字》
督は察なり。
目に関わります。目を光らせる、というイメージです。
観察する。監視する。
督促する。つまり、監視下にある人に対して、強制的に催促して何かをさせる。
監督。統領。支配者のイメージがあります。
子供は、やさしいお母さん (任脈・陰) に抱きかかえられ、親しく育まれ、支えられているのです。母は陰です。それと対象的に、お父さん (督脈・陽) は、高い立場から広い視野で見守ります。父は陽です。
大筋はこれでよいかどうかを支配し、また敵は来ないかということを厳しく監視している。
目です。
- 陰陽って何だろう をご参考に。
▶目を光らせて支配する
督.察視也.…督者、以中道察視之。人身督脈在一身之中。《説文解字注》
《説文解字注》では、督脈について言及があります。督脈は身体の真ん中にあるだろう。これは「中道」という基準からはずれていないか目を光らせているという意味だ… と説明しています。
督脈起於會陰,循背而行於身之後,為陽脈之總督,故曰陽脈之海.《奇経八脈考》
《奇経八脈考》では、 “陽脈の総督” と表現しています。総督とは、指揮官のことです。
目を光らせる。
また、軍事的な意味合いをはらんでいます。すべてをまとめ統率することです。そういう意味で、陽脈の海なんだ。大きな支配力のもと、魚類 (うろくず) をまとめ上げているんだ。そういう意味に取れます。
目の行き届いた支配力は、督脈が支配する「背部」に象徴される。
また、上から配下を見下げて、広範に支配する意味があります。
広範である。
督脈の流注を調べて驚くのは、非常に広範に流注する領域を持っているということです。特に背部兪穴は督脈の支配下にあるということが判明しましたね。しかもその背部督脈 (陽) の裏には任脈 (陰) が脈打っているのです。
▶目を凝らして見つけ出す
督脈は腹部にも流注があり、背部のツボと腹部のツボに相関性があることを示唆します。腹部腎経にも関わる可能性を《前編》で展開しました。
また、脳とも関わりがありました。このあたりは任脈・衝脈には見られない部分で、臨床的なヒントが満載です。脳に関わる「意識」「神経」などは陽の関わりが強く、陽の支配下にあることが分かります。最終的に督脈が通じることが重要なのでしょう。たしかに「意識」はなくとも生命は持続できますので、下にある根幹 (陰) ではなく上乗せ (陽) というイメージです。そして上が下を支配します。
これは「叔」の字源ともつながります。
叔.拾也。《説文解字》
尗.豆也。象尗豆生之形也。《説文解字》
又.手也。象形三指者。《説文解字》
「尗」は豆です。「又」は手です。2つで「豆を手で拾う」となります。手は上にあって、下の大事な豆を拾うのです。図の「督」の字を見るとわかるように、三叉になった象形が「手」ですね。
「手」だけでなく「目」も付け加わったのが「督」です。
ちなみに、「叔父」という言葉で使われる「叔」は、豆の小ささを意味します。豆は小さいので、そこから「年少」の意味を持ちます。つまり「叔」は「小」を意味します。
小さい豆粒のようなもの、それを上から目を凝らし、意識を集中して見つけ出し、それだけを拾う… そういう意義が「督」から読み取れます。
まるで診察そのものです。
▶背候診
背部督脈・背部膀胱経は重要穴処の集まりです。治療点としてだけではなく、診断点としても不可欠です。背中で診断する。切診 (手で触れて診察する) で、背中を診ることを「背候診」といいます。それくらい重視されます。
- ツボの診察…正しい弁証のために切経を をご参考に。
問診は患者さんの主観が入ります。ウソを言われたら太刀打ちできませんね。ですから問診だけで弁証して診断を下すのは、やはり無理があります。東洋医学を確かな学術にしていくためにも、レントゲンのような、患者さんの主観を挟まない情報が必要です。
切経 (手でツボに触れて診察する) は、脈診 (脈に触れて診察する) の難しさに比べれば入門者向きでもあり、しかも脈診に劣らぬ奥の深さを持っています。
その最もわかりやすい情報、この目で確かに見えるような事実が、背中にある。
それが背候診です。
背部膀胱経は、督脈と同一でしたね。背部膀胱経に五臓六腑の兪穴が配置されており、五臓六腑を治することができるのは、一源三岐の一角である「督」が支配するからです。
▶督は「診察」なり
督は “目に関わる” 。患者さんの話を聞いて判断するのではない。
目とは、主観を挟まないありのままの情報を示唆します。視覚というのは最も信頼できる。百聞は一見にしかず。
五臓六腑だけでなく、陰陽すなわち八綱 (陰陽・表裏・寒熱・虚実) のありようまで、背部を「目」で見て「察」することができる。 “督は察なり” です。
患者さんの容態をきめ細かく「察」する。手にとるように病態を「支配」する。
診察をつきつめると「督」に行き着くのです。
そしてその督脈の流注が、これほどまでに謎が多く解明されていないものであるとは。
診察というものは、生半可な知識や技術でなされるべきものでは決してありません。その「察」の象徴とも言うべき督脈の流注が、こんなにも「難解かつ複雑」であることは、臨床という実際においても同じことです。だだの偶然ではないこの一致は、前言を裏付けするとも言えるでしょう。