僕の臨床でもはや不可欠になったのは、表証を見抜くことです。表証を「カゼみたいなもの」と考えている専門家が多い中、僕も初心の頃はそう教わりそう信じていましたが、どうやらそこからはすでに抜け出しているようです。
表証を取り去るだけで、西洋薬でも漢方薬でもはかばかしくなかったものが、一気の回復を見せることがあるのは、正しい表証の捉え方が一段階進んだからだろうと思います。同時に、寒邪などの外邪がどの季節でも一枚からんでいることを示します。気を付けたいですね。冷やしちゃダメです。
表証のことを、漢方薬の原典「傷寒論」は、太陽病と呼びます。この太陽病関連の記載が、全体の半分を占めます。これはある意味、著者の張仲景がいかに太陽病と格闘したかの履歴を示すものでもあります。
傷寒論は今から二千年も前の臨床を描いています。そのころの人体生命は、いまの人体とは環境が違います。食べることが違う、寝る時間が違う、動く量が違う、考える量が違う。
あれこれ違うのですが、時代は違っても、僕もやはり太陽病すなわち表証と格闘してきた履歴を持ちます。その結果、病気の半分のファクターは、この表証によるものであるという印象を持つに至りました。時間・空間、そして環境の隔たりを超えて、通じるものを感じます。おもしろいですね。
下リンクの桂枝加厚朴杏仁湯は、桂枝湯にプラスαを付けたものです。基本は桂枝湯です。麻黄湯も桂枝湯が土台になっています。この桂枝湯という薬が適応する病態、それが表証であると張仲景は捉えたのでしょうか。そしてその病態を何をもって見抜いたか。それが悪風悪寒・頭項強痛・脈浮だったのです。当時としては画期的かつ絶対的モノサシとして使えたのでしょう。
しかし現代社会という環境下ではどうでしょうか。古代人ほど単純な生き方ではない。農耕や狩猟だけの生活では無くなっている。単純な生命ではなくなっている。どう考えてもそう思います。
桂枝湯にどうやってプラスαを付けるかよりも、奇をてらった他薬を使うよりも、そもそも桂枝湯が適応する病態とはどんなものか、現代の生命はその病態をどのように表現してきているのか、ほんとうに、悪風悪寒・頭項強痛・脈浮だけで事足りるのか。これが「真」の基本であり、その基本にこそ、我々は向き合うべきではないのでしょうか。
そもそもの基本に戻る、そのきっかけとして「勉強」を使う。これもまた、原典・傷寒論に向き合う方法の一つです。そんなふうに古人と会話する。あれもちがうね、これもちがうね、でも、基本は一緒だね。
勉強を楽しみたいと思います。

