“猫も杓子も” という言葉があるが、なんでもかんでも運動すればよいというものではない。安静を指導するケースが、僕の臨床では非常に多い。
安静か運動か。その判断は慎重に行う。まず脈診という特殊な方法を使って、運動して良い状態かどうかを見極める。初診の段階では、ほとんどがアウトである。生命力が伸びてゆくのに合わせて、ウォーキングを5分間から始めてもらい、それを徐々に増やしてゆくというスタイルである。
下リンクに挙げたオスラー病は、遺伝子病である。鼻血を主症状とする指定難病であるが、それを患う患者さんに対して、僕はまず安静を指導した。それが中学生、バスケットボール大好き女子なのである。だから、ぜんぜん言う事を聞かなかった。ところが練習中に骨折し、部活 (運動) ができなくなった。その途端に鼻血が出なくなったのである。
オスラー病の原因は、遺伝子異常である。…と言われているが、僕に言わせれば原因は一つではない。そもそも、改善不可能なものを原因としても意味がないと思っている。改善可能なものこそ、原因とする価値がある。本症例では、それが「運動をやめて安静にすること」だった。
これを素直に受け止められるかどうか。そこに病気を治す難しさがある。好きでやっていることを「やめろ」と言うのである。下手をするとケンカになるのである。今回は骨折に助けられたが。
病気を治す。その目的に向かって邁進する。そこには避けて通れない壁がある。その壁を、どうやって乗り越えるか。ケンカではない。必要なのは、知識・技術・人徳…。患者さんのカタクナな心を動かせるか。そんな奇跡を起こすことができるか!
なんども、なんども弾き返される。
それでもやめない。なぜか。
その壁から逃げるとどうなる?
生身の人間と人間のぶつかり合いを避けたいと願うなら?
もう本当に、事務的に機械的に患者さんを処理していくしかないではないではないか。まるでモノを扱うみたいに。
そんな医療を、そんな仕事を、やっていて面白いか? 意味なんてあるか?
すくなくとも、遺伝子異常の難病に対しては歯が立たないだろう。

