観測できない世界

自然科学は、この世界は物質 (などの観測可能なモノ) でできているはずだ…という仮定 (前提) のもとに成り立っています。仮定とはおかしいだろ、そういうモノでできていることは確定だ…という人も中には居るでしょうが、もしこの世界が僕という主観の思い込みだったらどうでしょう。その可能性は捨てきれません。この世界は僕の幻覚だけで成り立っている。空も山も、建物も他人も、そのしゃべり声もみんな、「ある」かのように感じているだけ…。

感じている…これは「こころ」です。この「こころ」を物質が持っているのではないか。そう思わせる学問があります。量子力学です。原子 (を構成する素粒子) や電子・光子など、極めて小さいものが量子であり、量子力学とはその物理学です。これらをよく観測すると、不思議なことに粒子という形あるものになったり、波動という形なきものになったりする。物質と非物質の二面性 (粒子-波動二重性) があるのです。この世は、そういう性質のもの (量子) で構成されている。

この量子は、さらに不思議なことに、「ふるまう」という反応を見せます。量子力学で用いられる「ふるまう」という表現、これは明らかに「こころ (認識力)」を持っているという前提を強く匂わせる表現です。量子をよく観測すると、その観測を察知し、見られていることを「認識」しているかのように「ふるまう」。つまり反応や行動を変えてくるのです。なぜそうなるかは解明されていません。ミクロの世界 (観測しづらい世界) では、不思議なことがあるのですね。

ではマクロの世界ではどうでしょう。この天地自然、宇宙というものが、巨大な一つのものであったとして、そこには量子と同様に、観測に対する「認識力」があったとしましょう。しかし、それは観測のしようがありませんね。我々が宇宙の外に出ない限りは。

この世界は不思議に満ちています。それに挑み続けるのが自然科学です。逆に言えば、まだ挑んでいる最中であるということ。そしてそれは挑むというにはおこがましいくらい、ちっぽけなものであるということです。大宇宙の外に出るどころか、地球の外に出ることすらままならないのですから。

大宇宙は「からだ」と同じ、物質でできている。…確かです。
そして「からだ」は大宇宙の一部である。…これも確か。
「からだ」は「こころ」を持っている。…これも確かでしょう。
これを量子が持っているかは? …いやいや、マンザラでもない。
これを大宇宙が持っていたら? …おいおい、そんな馬鹿な。

あの世があるとしたら、それは「こころ」の世界です。

そもそも「こころ」って何だ? これがそもそも未解明。幻覚の分際で、幻覚を解こうとするのがそもそも無謀と言えるでしょう。

解明に向けた努力は必要です。しかし、言い切れることなど何一つないのです。否定するのは百億光年早い。

永遠に「観測できない世界」は確実にある。それだけは言い切っていいでしょう。

死に向かって生きる… ゴールラインをこえて走り抜け
死後の世界はない。死後の世界はある。 どちらも信じてるだけ。 あるかないかはどちらでもいい。誰にもわからないので、水掛け論に終わるしかない。そんなことよりも、どちらを信じたほうが健康であるために有利なのか。これなら議論の余地がある。
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