朝あった乳ガンが消えた? … いま消すべきは結果ではなく原因

朝あったはずの乳ガンがなくなった?

ウソのような症例報告をする。

この奇跡は、鍼を打つ前にすでに起きていた。鍼を打つ前にしたことと言えば、問診と説明と指導である。たったそれだけで? と思われるかも知れないが、これは偶然ではない。「たったそれだけ」のことを当院ではいつも真剣に行う。その直後に「症状が消える」ことは日常茶飯時である。小さな奇跡は毎日のように起きているのだ。ではあるが、症状ではなく、物理的なガン (スーパーボールのような形状と硬さを持つ) が、その場で消えた (正しくは触知不能になった) のはこれが初めてのことである。ではなぜ今回そういうことが起こったのか。

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千葉から電話があった。乳がん、ステージ1、抗癌剤と分子標的薬を行っている。当院の所在は奈良。うう〜ん、千葉か…。そしてガン…。

実は、つい最近まで北海道からガンの患者さんが来ていた。1年にわたって治療した。しかしうまくいかなかった。やはり遠すぎるのである。いったんこちらに出向いて1ヶ月ほど治療し、そしてまた1ヶ月にわたって自宅に戻られる。少し良い方向に向いたかなと思ったら治療が中断する。向いた流れは断ち切られ、再び流れを戻すにはものすごく力を使った。そして最終ターンでは、とうとう流れは戻らなかった。

極端に遠方の方は、みなその向きがある。2週間も治療間隔が開くとそうなりやすい。普通の症状でも流れを戻すのは大変なのに、相手はガンである。

メンテナンスならともかく、一般的な症状も治していくには週に2〜3回は治療が必要、重症やガンともなれば週に3回は診ておきたい。1日で3回を固めて治療することも可能、それでも週に1回は来院してもらう必要がある。

通えるかなあ。

うう〜ん…。 

いやいや、ちがうちがう。基本だ、それを忠実にやるのだ。この初診に何時間かかろうとも、今というこの一期一会に、基本的なことを徹底的にやる。僕が納得するまでは! 結果なんてどうでもいい!

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61歳。女性。2026年8月25日初診。

2ヶ月前の6月、右乳房にしこりがあるのを見つけて病院を受診した。そして抗がん剤と分子標的薬の投与が始まった。その頃からしこりはますます硬く、現在は直径3cm弱のコリッとしたスーパーボールのような塊となっている。抗がん剤の影響で、頭は丸刈りで短い髪がバラバラと落ちる状態である。

実はこの患者さん、去年の6月まで診ていた。1年以上開いたので初診あつかいである。これは重要だった。ある程度、僕はこの患者さんのことを知っている。今回の奇跡は、これ抜きでは考えられない。

去年までの主訴はうつだった。デパス0.5㎎を半分に割って、それを1日1回服用するのみでメンタルが保てるようになった。それだけ良くなったので、本人の判断で2025年6月、当院治療を中断したのである。

そして2026年2月に、インドに5泊6日で旅行に行ったという。うつが良くなったので、行ってみようと思った。
僕としては、これが非常にひっかかった。

【ガンの病因病理 (私見) 】
なにか症状でもないと「むちゃ」をする人が、なにも症状が出なくなってしまった時にガンが生まれる。原因となるその「むちゃ」は、その人が一番「むちゃ」と認めたくないものである。断固として認めたくないものである。

これは私見だが、ガンとは何か「むちゃ」をやっているから出来るのである。普通は「むちゃ」をやると体が「悲鳴」を上げる。つらさだったり痛みだったり痒さだったり怠さだったり、しかしそれを何らかの方法で、ねじ伏せることができる。現代はそういう方法がいくらでもある。ねじ伏せられ続けた体は、最終的に「悲鳴」すら上げることのできない状態となる。それが水面下で静かに進行するガンであり、動脈硬化すなわち脳梗塞であり、認知症であり、医学的にもう「ねじ伏せることのできない病気」なのである。これらはすべて、自覚症状 (悲鳴) がない状態で進行するのが特徴である。「解決する」のは良いが、「ねじ伏せる」のは良くない。そういう無理を通し続けると、その道はいずれ行き止まりになる。これは法則である。
なにかブレーキでもないと「むちゃ」をする。体は「むちゃ」をされると困るので症状を出しているのである。それをねじ伏せたらどうなるか、よく考えてみよう。 体は気づいて欲しがっているのである。>> 気づいて欲しい

だがしかし、インド旅行がガンを形成するほどの「むちゃ」だったのか。これでは原因として「弱い」。…と思いつつ診察を続けた。

「ガンと言われて、うつにはならなかったんですか?」
「そうですねえ、ならなかったです。」
「今も?」
「はい、大丈夫です。」
「それは不思議ですね…」

以前に、ストレスでうつを悪化させたことがある。ガンと診断されることはものすごいストレスのはずである。にも関わらず、うつが出ない! …これは、興奮状態にある証拠だ。興奮状態にあって、いろんな「むちゃ」をしているのに自覚ができていない可能性がある。その旨を話すと、思いがけないことを言い出した。

「先生に怒られると思って言ってなかったんですけど…、実はインドには観光旅行ではなく、ある寺院にお参りするために行ったんです。有名なシャーマンがいた寺院で、そこに3日続けてお参りしました。すると気持ちがすごく楽になったんです。」

当該患者には霊感がある。それに悩まされてうつをひどくしていた。なので以前、「霊の世界に興味を持つな」と指導していた。そのことを踏まえている。

「どんなふうに楽になりましたか?」

「うつが完全にどこかに行ったような感じでした。私の生家であり継いだ家は古い家で、いろいろあったんです。でももう私は、この家のために犠牲にならなくていいんだと、はじめて思えたんです。それで何もかもが楽になって…。」

「なるほど。それが原因です。」

「え?」

「それがガンの原因です。うつは治ったんじゃない。前から行ってみたかったその異国の寺に参って、そして興奮して、その勢いで吹き飛んだだけです。エナジードリンクで元気になったようなもので、うつの “原因” は変わらず存在します。しかしその興奮によって、うつという形ではもう出なくなった。かわりに出たのがガンなんです。おそらく、〇〇さんは気づいていないと思いますが、うつが無くなったことによって、今まで出来なかったことがいろいろ出来ています。しかしそれは、生命力の器をはるかに超える量なんですね。つまり “原因” は水面下でますます大きくなった。だから、うつよりももっと悪い病気になった。言い換えれば、うつが今までブレーキがわりをしていてくれていて、これ以上 “原因” を増やさないように食い止めてくれていたんです。そのブレーキを吹き飛ばしちゃったんで、次の段階に進んでしまった。インドの寺にお参りしてから、ガンになったんです。うつを薬ではなく、興奮でねじ伏せたということです。ねじ伏せ方はいろいろあるんです。」

そこまで言う。いつものことである。

うつを興奮でねじ伏せたことが「むちゃ」だ。そしてさらに、うつが消えた興奮のもと、本人が自覚できない「むちゃ」をその後もやっている。それらは、当該患者が一番「むちゃ」とは認めたくないものである。

ケンカは覚悟の上である。

こんな話、素人さんが信じられると思うか? 分かったうえである。分かったうえで、救いたいのである!

専門家でも、この話は理解できないだろう。だから本症例のような奇跡が起きないのであると帰納して欲しい。「楽になりさえすればそれでいい」という考え方は、「今さえ良かったらそれでいい」という考え方と同じである。イソップが「アリとキリギリス」で諭したことをよく考えるべきである。

ところが、ケンカにはならなかった。

「なんか分かるような気がします。ガンができたのって、つい最近のような気がするんです。」

おお、奇跡。よし、ここまでは納得いただけた。次は…。「この家のために犠牲に」である。これについて詳しく聞く前に、体の反応を見ておく必要がある。ベッドで座ってもらって上背部を診察した。神道・心兪のアダルトチルドレンの反応を診るためである。そして、それが出ていたのである。家の犠牲になる苦労は、幼少期からのものである可能性が高い。聞いてみると、やはりそうだった。かなり苦労しておられる。うつの原因は幼少期から続く、家に関する苦労によるものだろう。 >> アダルトチルドレン…幼少期の背負えぬ重荷

実はこのアダルトチルドレンの反応、おととし5月の初診時にも出ていた。取れる段階まで治療が進んだときに、「幼い頃に大きなストレスで苦しんだ記憶はありますか」と問診したが、「とくにありません」との返答だった。何かあったには違いないが、自覚がないのである。こういう場合は、そのまま穴処の反応は取れてしまうのが常である。

ところが今回、穴処の反応が明らかに出ている。再びツボが反応し始めたのである。そして幼い頃から大きなストレスを抱えていることを告白された。

去年に聞いた時は「ない」と返答されていたことについて伺うと、「そのときは頭に浮かばなかったんです。しかし今はそれが出てくるんです。」と答えられた。こういうことは僕の臨床で初めてのことである。迷宮入りするところであった片付け物が、片付けるべきものとして出てきたのである。そして体 (ツボ) の反応として、鮮やかに応答を始めたのである。

そうだ、体は「それに向き合ってくれ」と言っている!

なぜ向き合わなければならないのか。

それは夏休みの宿題と同じある。宿題は片付けなければならない。にも関わらず、片付けることなく9月の始業式を迎えたらどうなるか。先生にこっぴどく叱られるのである。宿題をやる苦しみから逃れたとしても、先生に叱られる苦しみが待っているのである。

正しい神様は、我々に命題を与えておられる。それは、この一生をかけて片付けねばならぬものである。早く片付けたものから、幸せで生きがいのある生活が送れるのである。それまで苦しみは続く。今の苦しみを逃れたとしても、名を変え品を変え、苦しみは続く。本症例では、それがうつであり、ガンであった。我々に付きまとって離れない体の不調・病名はすべて、「それまでは続く苦しみ」なのだ。片付けから逃げてはならない。命題とは? 使命を果たすためにクリアしておかなければならないものである。使命とは? 人それぞれが持つ「命」である。生きる「意味」である。命とは意味である。われわれの命には意味があるのだ。正しい神様は、命を大切にするが故に、逃げることを許さないのである。

河原に転がる石には意味がない。しかしこれを漬物石にしようと持ち帰った瞬間に意味が生まれる。意味とは命である。その石に命が宿った瞬間である。

悪い神様は、そういうことを考えない。今さえよければ良いと考える。だから、その場で楽になることを良しとするし、そのように願いをかなえてくれる。多くの人々はそれを歓迎する。そして、あとでさらに大きな苦しみに見舞われた時、さらにその場で楽になることをかなえてくれる。そして、またさらに…。その「行き止まり」がガンである。もう、楽にできないのである。結果として悪い神様は、行き止まりで身動き出来ないところへと導いているのである。その道は、誤った道である。誤った道は必ず行き止まりになる。甘い言葉に乗せられてはならない。安易に楽な道を選んではならない。

正しい神様は、インドに行かなくとも此処にいる。太陽にだって、お月さまにだって、家の仏壇にだっている。要は、どういう心で向き合うかである。正しい願いを持って向き合えばインドにだって正しい神様はおられるし、誤った願いをもって向き合えばこの仏壇にだって悪い神様が宿る。

だから「霊の世界に興味を持つな」というのだ。興味本位は誤った意識である。誤った意識で向き合えば、正しい神様のところには行き着かない。正しい意識とは、たとえば感謝である。興味本位の目つきと、感謝のまなざしとは、向いている方向が全く違う。

犠牲心もまた、正しい意識である。

「犠牲にはね、なってはならぬものでもないですよ。僕の家も古くてね、飛鳥時代から続いているんです。その係累相応の苦労が僕にもあった。世の中には “犠牲になる側” と、 “犠牲になってもらう側” がいます。それがないと平和というものは来ません。犠牲心とは愛です。この体を健康にしたい。この世を平和にしたい。これは同じ願いなんです。道なんです。僕たちは “犠牲になる側” として生まれてきたんですね。そしてそれは、その器があるからその使命を課せられるんです。小学校1年生には足し算引き算くらいの使命は課せられますが、因数分解の使命は課せられないですね。世の中が僕たちにその使命を課してきたということは、その能力があると見なされているんです。その器なんだから、しかたないですよね。その使命なんだから、それを果たすだけなんです。その道を進む限り成長は続きます。成長している限り生き生きしています。その「生き生きさ」が健康なんです。しかし、その道から外れてしまうと成長は止まってしまい、しおれてしまいます。」

この苦労を、どうやって成長に変えてゆくか。逃げてはならないのである。
成長とは、貫徹する事ではない。貫徹に向かって1mm 前進する事である。
その成長が生き生きさを生む。その生き生きさこそがすなわち健康である。

この時点でアダルトチルドレンの反応 (神道・心兪の邪実) が取れた。初診では、これは特異なことだ。なぜならこの邪実は「取れる」というより、肝兪に「移動する」のであるが、重病の初診では、100%肝兪にはスキマなく深いところまで邪実が詰まっているので、物理的に移動できない (神道・心兪の邪実が取れない) 。ところが当該患者の肝兪には、この邪実が移動できるスキマがあった (肝兪の邪実が浅かった)。なぜあったかというと、一昨年5月初診ではスキマがなかったのが昨年6月までの治療でスキマのある状態にしてあって、治療中断期から今に至るまで、それが持続しているからである。通常、ガンにおいて肝兪にスキマなどない。この辺からもこのガンが、急激に生まれたということが分かる。とにかく、普通なら治療を継続してやがて取れるべき反応が、この日一日で取れた。これは去年まで治療していたからである。ちゃんと治療がしてあったという偶然があった。その偶然がなければ、今回の奇跡 (その場でシコリが消えたこと) も起こっていなかっただろう。

アダルトチルドレンの邪実 (神道・心兪の邪実) は、カギがかかっていて一生取れることはない。しかし肝兪にスキマを作ったうえで、問診を行いそれを患者が認めると、カギのかかっていない肝兪に移動させることができるのである。肝兪であれば、扉を開いて少しずつ整理整頓が可能となる。今回の初診で、この移動が起こったことは大きかったと考えている。

ちなみに今回の来院時では表証があったのだが、神道・心兪の反応を取る前に、すでに取ってあったことを付け加えておく。これをまずやっておかないと、心兪から肝兪への邪気の移動は不可能である。
表証は指導だけで取るのが僕のやり方である。「腺様嚢胞癌の症例」では、指導によって表証を取っただけでガンを吐き出した様子を、画像を付けて公開しているので参考にしていただきたい。つまりその時も、鍼を打つ前に奇跡が起こったのである。表証を取ることの重要性は計り知れないことはそこで詳しく述べた。それから類推して、本症例で起こった奇跡は、表証を取ったことも一因であると考えている。
一度にたくさんのことを解決しているのである。

腺様嚢胞ガンの症例
ドラマがあった。 頭部のガンである。頭蓋骨 (脳) や眼窩 (視神経) への浸潤が懸念される。 まさに診察している最中、大量に血を吐いたのである。

「では患部を見せていただきますね。胸を出して下さい。」

「はい。」

「どっちですか? 右? 左?」

「右のこの辺です。」

「どの辺? 分からないなあ。自分で触って下さい。」

「ここに…あれ? この辺なんですけど…座ったら分かるかもしれません。 (座って) あれ? どこだろう。朝はここにあったのに ! 」

「なくなった? 」

「はい… なぜ? 」

5/27 右胸にシコリがあるのに気づく。
6/4 病院受診。
6/18 乳ガンと診断される。ステージ1。HER2陽性タイプ。1.3cm。
7/14〜8/24 ビタミンC点滴療法を受ける。
7/31 2.5✕2.8cmに増大する。触るとコリッとしたスーパーボール様。
8/7 1回目の抗癌剤 (ドセタキセル) と分子標的薬。その後、大きさ硬さはさして変わらず。
8/25 眞鍼堂 (奈良) 受診。その日の朝、千葉を出発する前は存在したシコリが、16時には触知できなくなっていた。

「これはね、体が “あかし” を立ててくれているんですよ。ここまで3時間かけて話をお伺いして、そして説明し指導させていただいたことが、おおむね『正しい』ということの証しです。そして、〇〇さんがそれに従ってやっていいという証しです。体はね、 “わかってくれたんだね。うれしい。” って言ってくれている。その証しです。ここではね、体は “人間” として振る舞うんです。なぜかというと、僕がこの体を “人間” として見ているからです。 “モノ” として見ない。モノ扱いしない。そんな僕を見て、〇〇さんもご自分の体を “人間” として見ているんです。だから体は急に人間として振る舞いはじめた。気の医学とはこういう事をいいます。 “こんなシコリなんかなくても、ちゃんと私のことを気遣ってくれるよね。” 体はそう言ってる。」

8/28 病院で触診とエコーでの検査の結果、ガンが驚異的に小さくなっていた。1.5cm経の薄っぺらいものに変化。ドクターは、「1回の抗癌剤でこれだけ小さくなるとは…」と驚いていた。眞鍼堂を受診したことは伝えなかった為。その日は2回目の抗癌剤の予定だったが断った。分子標的薬のみ行う。
8/31 眞鍼堂2診目。胸を普通に触診するとガンは触れない。病院は「消えた」とは言っていないので確かめる。全力で指に気を集めてフェザータッチで触診して、わずかに触知できた。すこしでも指に圧を加えると消えてしまう。もんじゃ焼きのようにフニャフニャで1円玉のように平べったい。「これ、ご自分で触って分かりますか?」と問うと、「分かりません」。

3cm弱のスーパーボールが、1.5cm経のうすっぺらいもんじゃ焼きになったのである。無いに等しい。気を凝らした僕の手なら触知できるが、普通の手では分からない。

ちょっと信じられない、不思議なことではある。しかし、この世には、そういう世界がどうも存在しているようだ。少なくとも僕の周りには。

その不思議さが、物理的に存在している。

この生きた体は、多くの場や時で、モノとして振る舞う。だからモノである体やガンは、朝に存在していれば夕にも存在するという、当たり前の現象が映し出される。

しかしこの生きた体は、とくに僕の周りにある場や時において、人間として振る舞うことがある。だから、朝と夕では「別人」となることがある。朝はガン患者であっても、夕にはガン患者でなくなることがある。ガンは、朝に存在していても夕には消えることがある。

量子力学に明るい方は、「振る舞う」というワードから解いて欲しい。見る (観測する) か見ない (観測しない) かで、量子は粒 (モノ) として振る舞ったり、波 (モノではないもの) として振る舞ったりする。観測とは明らかに「モノとして見る」ことである。モノとして見たら、この世のすべてはモノとして振る舞う。人間として見たら、この世のすべては人間として振る舞う。この日も月も、大地や大自然も、人間として見るならば人間として振る舞ってくるのだ!

人間とは、話を聞いてもらえただけで、分かってもらえただけで、ごめんね、これから気をつけるよと言ってもらえただけで、その場で「別人」となる。
モノはそういう反応は起こさない。相変わらず、さっきと同じである。

この今のつらい状況、人間とは、この結果だけをどうたら言ってほしくないのである。なんで自分がこんなふうになってしまったのか、それを、原因があるんだ…、それを分かってほしいのである。
病に苦しむ体は僕たちに、何かを分かって欲しがっているのである。原因を、分かって欲しがっているのである。

〇

原因とは。食べる・寝る・動く・考える、その中にある。我々の行いの中にある。モノではない。人間そのものである。
結果とは。病体である。人体というモノ (物質) に存在するモノ (物質) である。

食べることと寝ることは、養生を一般化しやすい。
・いつ何をどの程度食べるのか。
・何時に寝て何時に起きるのか。
だから当院ではこの2つを主に指導する。

動くことと考えることは、複雑すぎて養生を一般化しにくい。
・どのように行動すべきか。
・その行動はどのような考え方に基づくべきか。
しかしガンなどの治りにくい病気は、この一般化しにくい処に踏み込む必要がある。このような病気は何十年もの積み重ねがあって出来るもので、食べることや寝ることの単純な養生だけでは不十分なのだ。ただし、ずっと一緒に暮らしててる人ならともかく、初診の3時間や4時間で、僕がこれを把握して原因を特定するのは至難の業である。本症例では奇跡的に、たまたまそれができた。そしてさらに、その原因を患者さんが理解し、指導を受け入れるという処までたどり着くという、さらなる奇跡が起こったのである。

その結果として…。

〇

その初診の日、朝目覚めたときに思った。今日は千葉からガンか、うう〜ん…。
そして思い直した。いやいや、基本だ。基本に立ち戻ろう。基本を徹底してやるまでだ。
基本とは? 原因である。結果を考えるからイヤになるのだ。
そうだ。結果なんかどうだっていい。僕はそういう人間だったはずだ。その結果となるに立ち至った原因こそ大切だ。今までもそうやって、何度も難関をくぐり抜けてきたんじゃないか!

そして3時間の真剣勝負、原因だけを見ようとした。

そして原因をハッキリと見た。

その結果。

僕はついに、ガンがここにあるという「結果」を見ることはなかった。

見ようと思ったが、もう無くなっていたのである。

朝はここにあったと、伝え聞いただけだったのである。

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