免疫学者の多田富雄先生 (1934/3/31~ 2010/4/21) がおっしゃっていたことだが、自他を区別する境界線、この線引きは難しい。免疫は自己を守ることが仕事のはずなのに、自己を守ろうとしない、あるいは自己を攻撃することがしばしばある。つまり病気である。
自己を攻撃する免疫は、まるで僕を攻めてくる他人さながらである。この体にそんな免疫細胞がいる限り、この体におけるすべてが「僕である」とは言いがたい。では、自己 (この体) とはどこからどこまでをいうのか。
多田先生は「自己とは動きである」と喝破された。自己という統合・制御システムにおいて一糸乱れぬ「動き」をする一切の分子、それこそが真の自己なのである。
僕は物事を大ざっぱに捉えるクセがある。
免疫細胞の動きが健康の基であり、そしてすべての病気の原因とするならば、その免疫細胞の動きの「正しさ」「誤り」の大本はどこにあるのだろう。
一切の「分子」の統合体であるこの人体が行う「動き」にある。そのように僕は言いくるめたい。生活習慣と言い換えてもいいだろう。この「動き」が、そもそも統合・制御システムを攻撃し破壊するようなものであるならば、その「行動」をするあなたは自己ではない。自己を攻撃し破壊する原動力だからである。
統合・制御システムを手助けするものなら、あなたとこの体は一糸乱れぬ連携を保っており、この2つは「1つの自己」として成り立つ。
いつまでも「この体=物質」に原因を求めていては進歩がないのではないか。いま僕が何をするか、そのマクロの「動き」こそが、ミクロの「動き」つまり免疫細胞の動きを決定するのだろう。ぼくの大ざっぱな感覚は、そうささやきかけてくるのである。
「動き」を解決したいなら「動き」を変化 (改善) させるのがセオリーではないか。いつまでも次元の違う「物質」に固執していてはラチが開かない。量子力学が説明するように波動 (動き) と粒子 (物質) は、一体でありながら次元も性質も違う。世の中も体も、そもそもそういうふうにできているのがこの世界であるということに早く気付きたい。
この秋、急に寒くなったら服装は冬物に変えよう。具体的内容は下リンクに挙げた。たとえば素早く冬物に変えるこの「動き」が、この体という統合・制御システムをどれだけ手助けすることだろう。免疫細胞の「動き」をどれだけ正しくすることだろう。
難しい医学用語ではない。「冬物のパジャマ」「真冬の格好」こんな卑近な言葉では説得力がないと感じるならば、それは臨床を知らないからである。机上の学問では人は救われない。
ノーベル医学賞が毎年選ばれているが、見方を変えればもっと一度に多くの人を救えるはずだ。

