いずれ死ぬと分かっているのに、何のために生まれてきたのでしょう。まるで死刑囚と同じです。執行は、明日かも知れないし10年後かもしれない。生まれたときから死ぬと分かっていて、僕たちは早かれ遅かれ、いずれその恐怖におびえることになるのです。不安は、生まれてきたものにとって宿命です。
そしてそれは同時に、安心立命を得ることを人生の目標として生きるべき宿命でもあります。それを得るために、われわれは日々努力したり、楽しみを探したりするのです。勘違いしている医療者もいるかもしれませんが、安心立命なくして病気が治るなどということは断じてありません。
ただしその努力はなかなか報われません。安心したと思うのも束の間、次なる不安が手ぐすね引いて待っているからです。
安心立命を得るにはどうしたらいいのか。安定を得るというのはその条件の一つでしょう。浮いては沈む波ではありません。浮きもせず沈みもしない一定さ、それが安定です。
この世の中は変化し続けます。そのなかで一定のものを得る。こんな難しいことはないと同時に、これほど人生をかけて試みる値打ちのあるものもありません。
病気になりたくない。貧乏になりたくない。だから努力する。ただし、死にたくないという最後の願いだけは、いずれ裏切られる。いずれついえるこの命ならば、それを無理やりつなぎ止めようとしても無駄な努力であることは目に見えています。
だからまかせる。誰に任せる? この大自然にまかせる。10分間も空気なしでは生きられない、か弱い我々です。この大自然に、命を与えられっぱなし。水は3日間とらなければ死にます。生まれてこのかた何度命を与えられたことか。そしてその一生の内、たった一度だけ命を奪われるのです。死ぬとは、1000与えられて1奪われるに過ぎないのです。
まかせていい。
ほんとにいいの? いい。一生をかけて一定した安心とは、そこにしかないからです。そしてその安心なくして、幸せなどないという事実。幸せになりたくて、健康になりたくて、あがいて、もがいて、何度も何度も繰り返して、それでも結局はそこに戻ってきてしまう。
安心立命、如何にして得るべきか。一生かけて取り組むべき努力。幸せとは、その繰り返しのなかで得られていくものなのでしょう。


