よもやま話…認知症

「先生、となりの奥さんがボケました。」

「へえ…」

「わたしも、そのうちボケるのとちがうやろか。」

「ハハハ…」

「ボケないようにしようと思えば、どうしたらいい?」

「人間だれしもボケる…」

「そんな…!!」

「ボケるといっても種類が二つある。物忘れは年をとると誰でもするんですよ」

「???」

「問題は、忘れたことを『認めることができるか』やな。だから認知症って言うんよ、ハハハ」

「???」

「よくドラマなんかであるでしょ? さっき朝ごはん食べたのに『食べてない!』っていうの。
あれはね、この自分が食べたことを忘れるはずがない、って思いこんでるから、そう言うんよ。
他人の言うことを認めようとしない。」

「なるほど。」

「自分は年寄りだから、忘れることもあるかもしれない、って考えられるか…。
もうひとつ言うなら、自分のことを大切に思ってくれているからこそ、『さっき食べてたよ』って言ってくれている。
そういう人の言うことを信じよう。
…もしそんな気持ちのある年寄りなら、家族はもっと大切にしてくれるはず。そう思いませんか?」

「たしかに。」

「逆に、『食べてない!』って言い張る年寄りが、家族と仲良くやっていけると思う?」

「嫌われるな…」

「そうでしょ。だから老人ホームが必要になるんやな。」

「わたしも、好かれる年寄りにならないとなあ。」

「そうですよ。年が寄れば、体は弱くなる。頭も弱くなる。でも一つだけ、死ぬまで成長しつづけるものがあるんです。」

「何ですか!?」

「それはね、『徳』ですよ。」

「徳?」

「そう、徳。『モクサクライ』っていう言葉があるんです。」

「モクサクライ?」

「『黙如雷』って書くんですけど、『黙して雷の如し (もくしてらいのごとし) 』。
黙っていても雷みたいに響く、っていう意味です。」

「?」

「徳のある人は、黙っていても、雷鳴がとどろくほどの影響力がある。
黙っていても、人を動かす力がある。教える力がある。
それは若い人にはできません。
出来るのは、経験を積み、何度も失敗し、それを何度も乗り越えた人。
多くの経験を持つお年寄りだけです。
そんなお年寄りを、若い人が老人ホームに入れたりしますか?」

「そら、入れるわけないなあ。」

「でしょ?そういう人はいてくれるだけで心強い。若い人は安心して働けるんです。」

「なるほど」

「そうならないとイカン。たぶん無理やろうけど、でもなりたい。…僕はそう思うんです。」

「わたしもなりたい。」

「その為には、高尚な趣味を持たないとイカン。それはただの遊びではない。
真剣に自分自身と向き合えるような趣味です。」

「たとえば?」

「人それぞれやから難しい。
でも、一つ言えることは…茶道とか武道・華道・書道って、みんな道がつくでしょ。
あれは道を求めているんですよ。仏道・神道・修験道っていうのもあるな…。
これは人に褒めてもらうためにするのでも、ご飯を食べるためにするのでもない。
たぶん精神的な高みを追及してると思います。」

「写経なんかもいいの?」

「それが頭に浮かぶのなら、試してみられてもいい。
ただし字が上手になるためでも、般若心経を間違えずに覚えるためでもない。
自分を高めるためにやる。そういう意識でね。」

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