
自然科学は「こころ」に踏み込めない。その実在を広範に証明できないからである。自己のみの「こころ」という、狭い範囲なら認識はできる。しかし、あらゆる他人に「こころ」があるかどうか、まずこれが証明できない。
他人にも「こころ」がある、そう信じているだけである。自分に「こころ」があって、それはこういうものだから、きっと他人にも同じようなものがある。自分勝手な想像、 “きっと” の領域から抜け出せないのである。
いや、この自分の「こころ」すら怪しい。「こころ」とは認識であると思われるが、そもそもこの認識こそ、そう勝手に思い込んでいるだけという可能性がある。ここに自分の手があって、それをギュッと握ったら、実際に握りこぶしが認識できた。…これが幻覚であるという考え方を否定することはできない。そう、認識とは信じること、「こころ」とはそういうものなのである。
他人の表情・言葉・行動も、他人にも自分と同じような「こころ」があるという仮定で考えるとツジツマがあう。あいはするが、そう勝手に見えている、思い込んでいるかも知れない。他人に「こころ」などない。あるかのような幻像が映じているだけなのだ。
「こころ」だけではない。この世のすべてはこの僕の、「こころ」が勝手に認識した仮想空間かも知れないのである。
話が飛躍したのには理由がある。ぼくは物心ついた頃から、 “自分にあるこの心はどこから来たのだろう” と考える性質を持っていた。庭石と庭石との隙間に空いた穴の暗さを見つめながら、その疑問に苦闘したのは就学前であったと思う。
「こころ」を否定してはならない。いや否定できない。そしてそれは、この世の物質的なものとは次元が違う。この体は、「こころ」という次元と「からだ」という次元の、2つの次元を持つのである。
そして古人は、この世界を、「あの世」という次元と「この世」という次元の、2つの次元を持つものであると考えたのである。あの世とは「こころ」、この世とは「からだ」である。この2つの要素があってこそなのだ。
「あの世」を否定してはならない。いや否定できない。
だから今日、墓石を前に花を手向けるのではないか。


