歴史の教科書に登場する医療行為として、最も古い記載は光明皇后ではないだろうか。
奈良の大仏を建立した聖武天皇の妻である。
光明皇后は、悲田院・施薬院をつくり、医療や福祉に貢献した。
悲田院とは孤児や貧窮者を救うための収容施設である。
施薬院とは薬草 (漢方薬) による治療を行うための施設である。人参や桂心などの漢方薬が用いられ、また栽培されていた。
いわば、漢方外来および入院施設、生活困窮者の福祉施設を兼ねたものである。
これらの施設が作られたのは730年、奈良時代である。中国伝統医学の日本伝来は562年なので、150年の学びの時を経て、自前で生薬を栽培し、診察診断をおこなって薬を配合するところまで技術が向上したのだろう。病める人を救いたい願いと努力は、今も昔も変わらない。
光明皇后は、歴史に初めて登場する医療人と言える。
こんな伝説がある。
ある日、光明皇后は、貧しい人のために浴室をつくって自らの手で千人の貧者の垢を洗い流すことを仏様に誓う。来る日も来る日も汚く貧しい老若男女の体を洗い続けた。そしてついに千人目の貧者を洗い流す時がやってくる。しかしその貧者は癩病 (ライビョウ・ハンセン病) に犯され、全身の皮膚はただれ腫れて膿が滲み出し、異様な臭気をまとっていた。ところが皇后は嫌な顔ひとつせず、背中を流し始める。するとその貧者は「俺の体中の膿を、くまなく口でチュウチュウ吸い出せ」と無理無体なことを言い出した。皇后は嫌な顔ひとつ見せず「はい、分かりました」とばかりに吸っては吐き、吸っては吐き、やがて全身の膿を吸い終わる。と、その途端、貧者の体からまばゆい光輝が放たれ、驚いてよく見れば、仏様の姿となっていた。この貧者は、皇后が日頃から信奉する阿閦如来アシュクニョライの化身であった。貧者に化けて皇后の「真心」を試されたのである。
この伝説は、正倉院『東南院文書』 (1165) ・『建久御巡礼記』(1191)・『元亨釈書』(1322)などに散見される。
阿閦如来は、不怒にして不動の悟りを開いた仏で、その右手は垂れて大地に触れる触地印 (そくちいん) が特徴である。まさに「不動の大地」の権化である。
大地は、けがらわしい人間が糞尿を撒き散らしても怒ることなく、黙してそれを受け入れ取り込み、有益な養分に変えて生命を育む。
人体にも同じような機能が備わる。異物を受け止めそれを生命に変える。邪悪分子を受け入れそれを一掃する。消化吸収作用・免疫作用・解毒作用である。大地から生まれた人体に備わる「土」の働きである。
「医は仁術」と言われる。
光明皇后のこの伝説が、日本医療の創世期に登場することに、日本人としてまた医療人 (医業類似行為者) として、誇りを感じる。
たしかに、衛生学的にはこの行為は禁忌である。
しかし、それにコダワッたりカコツケたりして、本来の医療人が持つべき「真心」を失うことがあるならば、それは本末転倒となる。
光明皇后の真心とは「土の心」である。自らがけがれてもいい。この心が大きれば大きいほど、邪悪分子を一掃する力が増すとは、仏法の説くところである。これは僕自身も経験するところであって、術者としては効かす力、患者としては治癒する力、これらがドンドン増す。
人間を「ニンゲン扱い」にせず、「モノ扱い」するならばこの力は得られない。
知識や技術だけではない世界。
知識や技術だけが先行して、もう一つの大切なものを置き去りにするならば、片輪を失った車のようにとんでもない方向に進んでしまうだろう。
現代の医療はどうだろうか。
病に苦しみ救いを求める人を、「キタナイモノ扱い」「バイキン扱い」にする世情がもしあるならば、正しい方向を向いているとは言えない。
もう一度、日本人が元来持つ識見 (物事に対する正しい判断) に立ち戻りたい。
遠い昔に光明皇后が阿閦如来によって試されたように、今まさに我々が天から試されているのだ。
時代の最先端を行く医療。
未開時代のつたない医療。
それぞれの知識や技術に差異はあっても、
それぞれの担い手の「真心」には、差があってはならない。
犠牲心。
患者さんが助かるのなら、自分が身代わりになってもいい。
それが「医療の原点」だったのだ。
【参考文献】
“光明皇后の施薬院・悲田院と施浴伝説” http://jsmh.umin.jp/journal/57-3/57-3_371-372.pdf
“ハンセン病 ―苦難の歴史を背負って” https://www.eiken.co.jp/uploads/modern_media/literature/MM1411_04.pdf