足の陽明胃経《経別》…景岳先生の説に異論あり

胃経といえば、承泣から始まり厲兌に終わるというのが一般的な認識だが、臨床を高めるにはこれだけでは不十分である。《霊枢》には実に複雑な流注 (脈気の巡行) が記載されている。それは、経脈・経別・絡脈・経筋である。経絡とは、これら4つをまとめて言ったものである。

本ページでは、このなかの「経別」について、《霊枢》を紐解きながら詳しく見ていきたい。

足陽明之正,上至髀,入於腹里,属胃,散之脾,上通於心,上循咽出于口,上頞䪼 ,還繋目系,合於陽明也。《霊枢・經別11》

足陽明之正,
足の陽明の正は、
>> “足の陽明の正は” というフレーズは、「足の陽明の経は」ということである。
経別とは正経の別れであり、正経の一部である。これが一般的な認識である。

【私見】 「正」という字は、囗+止 である。囗は国のような「線引されたある範囲 (枠) 」を示し、ここでは陽明胃経脈がめぐる「決められた範囲 (枠) 」を示す。そこに 止 (=足)  を踏み入れ、自由にワープしたり “脾に散じ” て他臓と連携を強めたり、「枠を度外視した働き」をする。これが “足陽明之正” つまり胃経の経別である。

上至髀,入於腹里,属胃,散之脾,上通於心,上循咽出於口,上頞䪼 ,還繋目系,合於陽明也。
【訳】厲兌から上って髀関穴に至り、気衝穴から腹裏に入り、胃に属し、散じて脾に行き、上って心を通り、上って咽を循 (めぐ) り、口に出て、 (そのまま承泣穴には行かず、まず) 頞䪼に上り、グルっと回って目系に繋がり、 (その後やっと承泣穴に合流して) 足の陽明胃経に合流する。

【私見】「目系」とは何だろうか。《内経》では「目系」は「眼系」「目本」とも表記されている。
《経脈篇》《経別篇》《経筋篇》の流注を見渡すと、単純に「目」とか「眼」とかいう言葉は見られず、目そのものを示す単語があるとするならば、目系以外には見当たらない。《類経》の解説には “目内深処為目系” (目の内部の深い処のことを目系という) とあるのみで、踏み込んだ説明がない。
経脈・経別・経筋篇において、目系に流注で関わるのは心・肝・胆・胃の4つである。

以上のように、目系とはただ単に「目に関係する」というニュアンスではないことが分かる。「系」とは「 (糸で) つなぐ・つながる」という意味がある。よって目系とは、「目そのものと、目につながるもの一切」ということである。

ところが多くの現代の解説書では、胃経経別の「目系」を、目そのものではなく「下眼瞼 (下まぶた) 」に重きを置いて解説している。もちろん、足陽明之筋.…陽明爲目下網.《霊枢・經筋13》とあるように、陽明胃経は下眼瞼を支配していることは間違いない。

ちなみに上眼瞼は膀胱経が支配する。
足太陽之筋.… 其支者.爲目上網..《霊枢・經筋13》

それを断ったうえで、「胃経経別における目系」とは何か、ハッキリさせておきたいのである。

以下の張景岳先生《類経》の解説でも、この「目系」という言葉を「下眼瞼」に重きを置いて解説している。

足陽明,上至髀関,其内行者,由気街入腹裏,属於胃,散於脾,上通於心,循咽,出於口,上頞䪼,入承泣之次,繋目系為目下網,…《類経》
【訳】足の陽明胃経の経別は、上って髀関穴に至り、その内行するものは、気衝穴から腹裏に入り、胃に属し、脾に散じ、上って心を通り、咽を循 (めぐ) り、口に出て、頞䪼を上り、承泣穴に入る。「繋目系」《霊枢》は「目下網 (下眼瞼) 」のことを指すのである。

“頞䪼を上り、承泣穴に入る” は、
「頞䪼を上り、目系を支配下に置いた後、承泣穴に入る」
とするのが正しい。 “頞䪼を上り、承泣穴に入る” の文脈だと、「承泣穴=目系」 と解されても仕方がない。つまり、胃経経別での目系とは下眼瞼 (下まぶた) というイメージになる。

自験例として発表した 失明して40年の目が、たった一本の鍼で ! ? は、眼科医療全般において最も顕著で得難い効果が得られた症例であると思われるが、明らかに陽明を動かし痰湿を除去しようとしているのである。足陽明胃経においては、「目系」にかかわるのはこの胃経の経別のみである。よって胃経の経別を動かしたと言える。胃経の経別を動かして、40年間見えなかった目が翌朝には見えるようになっていたのである。

つまり胃経経別での「目系」とは、目そのもの (視力を含む) のことであると類推できるのである。

失明して40年の目が、たった一本の鍼で ! ?
タチの悪い詐欺広告のようなタイトルだが辛抱して読んでいただきたい。内容は至って真面目な症例検討である。中医学のアプローチ (鍼) によって、中心暗点が移動し、左目が見えるようになった。
失明の患者さんのその後…さらに視野拡大、中性脂肪2ヶ月で300下降
中心暗点は、さらに上方に退き、だんだん透明になってきた。と同時に、中性脂肪が300も下がった。いずれも痰湿のなす技、いずれも百会一本鍼で起こった結果である。

胃経は下まぶたのモノモライに効く…などというレベルの話ではない。
陽明胃経は、眼球そのものに効くのである。場合によっては見えなかった目が見えるようになるくらい、密接に眼球 (視力) にからんでいるのである。「繋」っているのである。
「繋」は「つなぐ」ではあるが、一方的にぐるぐる巻きにする…という強い意味を持つ。相手をねじ伏せるくらいの強烈な支配力をもって「つなぐ」のである。

胃経の経筋は下眼瞼を支配し、胃経の経別は眼球を支配する。
これが《霊枢》で言いたいことではないだろうか。

さきほど目系とは「目そのものと、目につながるもの一切」と説明したが、もちろん下眼瞼も含むと考えるといい。

高度な症例によって、中医学は発展する。
実例 (実際) こそが、学問を生み出す原動力となる。
机上の論を振り回して批判したい人は、まずこれに匹敵する自験例を出してもらいたい。

陽明胃経は下眼瞼だけでなく、眼球 (視力) をも支配するという項目を、参照として中医学に付け加えたい。

以上の仮説を提示したうえで、さらに重要なことがある。

胃経の経別は、脾から心を通り抜けて眼球に達している。眼球 (視力) に達するには、まず脾が整うことが大切である。つぎに心が整っていることが大切である。その条件がそろって初めて、胃気 (正気) が目に達すると考えられる。

それは、失明して40年の目が、たった一本の鍼で ! ? で症例検討させていただいた患者さんを診て、そう思うのである。脾胃の養生 (食養生) を厳格になさった。そして、あまり見たことがない素直で真面目な方である。一見朴訥で飾り気がないが、すごく純粋なのである。つまり心神はすでに整っていて、脾胃さえ力づけば、その力は心を難なく通り抜け、眼球に達したものと考えられるのである。

痰湿の除去、そして心 (シン) の重要性。

それを裏付けるような、その患者さんの娘さんとのチャットである。

2025年1月28日 21:37
いつもありがとうございます。
(母は) 昨年の今頃は、咳、痰、副鼻腔炎をこじらせて、コロナやインフルエンザにかかり、耳鼻科通いの日々で沢山の薬を飲んで、不調続きで伏せっていたのを思い出します。
近頃は、耳鼻科知らずで、母の声も、はつらつとしていて聞いてて心地よいものです。
薬も何一つ飲んでいません。有り難いことですね。感謝感謝です。

2025年1月29日 4:03
そうなんですね。
毎年1月は、みんなそうなんですが、お正月に食べすぎているので痰湿を生みます。咳、痰、副鼻腔炎はすべて痰湿がからみ、この時期流行するカゼもみんな痰湿で体を弱らせたことが一因であり主因です。食べ過ぎがこれほどいろんな体調不良に関わっていることを、みんなが認識するべきですね。医者ばかりでなく、漢方家や鍼灸家でも、これを知らない人が多いです。
お母さん、本当に真面目に僕の言うことに耳を傾けてくださっています。そういうお人柄あってのことだと思います。
こちらこそ、いつもありがとうございます。

2025年1月29日 23:09
上雅也先生、今日も新たな痰湿は出ていません。と先生に言ってもらえたわと、治療から帰ってきたら嬉しそうに話をしてくれます。
そして、治療が終わったら涙が溢れるんよと涙ぐんでました。
母は素直で実直な性格、そんな母だからこそ先生の元で奇跡を起こせるのかもしれませんね。
ありがとうございます。

心に濁りがあれば、脾胃の力 (正気) はそこでさえぎられ、眼球には届かなかっただろう。

眼神といって、目には心神が宿る。
目は心の窓とも言われる。“目為神之牖”(《推蓬悟語》)

脾胃に痰湿なき清らかさがあってこそ、心は清らかになる。
心が清らかであってこそ、目は清澄に光を通すのである。

患者だけではない、醫者も心が純粋であらねばならない。

 

足の陽明胃経《経脈》
胃経といえば、承泣から始まり厲兌に終わるというのが一般的な認識だが、臨床を高めるにはこれだけでは不十分である。《霊枢》には実に複雑な流注 (脈気の巡行) が記載されている。それは、経脈・経別・絡脈・経筋である。経絡とは、これら4つをまとめて...

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