
栄養を摂ろうとし過ぎである。だからおかずの量が増える。なんでもイッパイ取り込めばいいというものではない。お椀に表面張力するくらい味噌汁をイッパイ注がれたら、誰だって困るだろう。体も相当困っているのである。欲張りが過ぎると適量というものを忘れる。
目的が栄養なら、玄米も同じことである。玄米正食では、肉や甘いものは禁忌であることをもう一度確認しよう。その最も重要な部分を無視して、栄養豊富と聞けば「玄米だけは」取り込みたいのである。栄養を取り込みさえすればいいという考え方は、取り込み過ぎによって体がどれだけ困るか苦しむかを知っておかないと、片手落ちになる。
肉や甘いものを辛抱できないのである。なのに、米だけ玄米にしたいというのは虫が良すぎる。そういうことをするから短命で終わるのである。玄米正食は、玄米+季節の野菜+植物性の保存食、これが基本である。
にもかかわらず肉や甘いものが我慢できないのならそれは欲張りというもの。いや、そもそも現代社会で肉や甘い物を食べずに生活することは、非常な不便を伴う。できもしないことをやろうとするのは、もはや理想論である。
玄米正食が生まれた明治・大正時代はそれで良かった。庶民の日常に肉や甘いものはなかったからである。だから、主食を白米から玄米にするだけで、多くの命を救ったのである。ただしそれは過去のこと、今は都市伝説といっていい。僕の臨床では、玄米をやめようとしなかった方には奇跡は起こらない。分つき米もアウトである。
>> 玄米は昔の話
白米は白に米だから「粕」だとは、なんたるコジツケだろう。「粕」の原義は酒粕である。透明な清酒を取り出した後の白いカスである。「白」とは白米のことではなく、酒粕の色なのである。
「精」という字は精米した白米のことである。「精」は「生」のことであり、字源を勉強すれば分かる。「精」から「気」が生じる事実を考えれば、「氣」という字は白米から湧き出る気 (湯気・パワー) を意味する。事実を勉強してから言うべきである。
余分なものを取り除いたエッセンス、それが白米であるということ、古代中国の字の成り立ちから言えるところの事実である。もちろん「糠」と「康」を否定するものではない。肉や甘いものとの取り合わせが悪いと言っているだけである。
肉も食べたい、甘いものも舐めたい、でも健康になりたい。
だから玄米も取り込んじゃえ。
欲張り。
食べられる側の「命」は、どんな目で我々を見ているだろう。
食べる側の「命」は、抱えきれない栄養を処理しきれず苦しんでいるのである。
苦しんだ末に生まれるものは?
痰湿・邪熱である。あらゆる病気の原因である。欲の陰湿さと炎熱である。
爪の色が玄米のような色なら、ご一考あっていい。

