流派、宗派で争うな

コミュニティーを持っているのは何も人間だけではない。サルも立派なコミュニティーを持っている。「なわばり」である。

コミュニティーはまず、居住を共にすることで生まれる。また思想を共にすることで生まれる。サルの場合は、居住は「なわばり」である。思想は「子孫繁栄」である。この狩場でボスザルは、エサを求めてはメスザルに分け与えつつ、暇さえあればサルのようにやりまくるのである。

今、イランとイスラエルが激しく争っている。イランはイスラム教、イスラエルはユダヤ教であるが、両教はともにエルサレムを聖地としている。まさに「なわばり」である。俺の聖地を犯すんじゃない! この感情が核心にあって、そこにいろんな食い違いが重なって戦争になっているのである。「なわばり」を守りたいのである。

だがよく考えてみて欲しい。人間はサルではない。もう少し出来が良いのである。その出来の良い頭が太古の昔、宗教というものを生んだ。

人間には善良性 (良心) がある。深い穴に落ち込んだ子供を見かけたら、多くの人はなんとか助けようとする。これが善良性である。この善良性によって「正しい宗教」が生まれた。神である。神は無償の愛を持つ。まさに善良性の象徴である。

神は有形のものではない。善良性の象徴として精神的 (思想的) に存在する「理想的良心」、それに人格 (神格) を加えたものが神である。だから良心そのものと言っていい。その良心に、エホバであったり、アラーであったり、名称を付したのである。そしてその姿 (形) は、人間が勝手に想像して付け加えたものである。よって神の名称や姿 (形) は各宗教によって異なるのは当然のことである。

要するに、Aさんという人がいて、そのAさんは父でもあり夫でもあり会社員でもあり少年野球指導者でもある。また前から見た姿、横から見た姿、後ろから見た姿を持つ。「父」「夫」「会社員」「少年野球指導者」…まさに異なる名称と働きを持つ。そして「前」「横」「後ろ」…まさに異なる姿を持つのである。これが分からずに、お前の神と俺の神はちがうんだ! とわめいているのが分かるだろうか。

そのちがいを超越して、神とは良心なのだ。

その良心が血を求め、殺戮 (さつりく) を恣 (ほしいまま) にするなどということがあるだろうか。明らかに悪魔 (悪意の象徴) の所業である。いや、悪意ではない。単に、ケダモノにおける「なわばり争い」である。大きなキ〇タマを持ったボスザルが、ただケダモノの本能のままに、自分のコミュニティーを守りたいのだ。そのためには、他のなわばりのサルたちが死のうが血まみれになろうが、全く意に介さない。ケダモノだからである。

殺すことはダメ。良心のカケラでもあれば分かる。

タマがでかいだけのケダモノが、いかに多いことか。

われわれ鍼灸師も、それぞれが思想をもっている。それが大勢で合致した時、流派というコミュニティーが生まれる。自分の流派のみを正しいものとし、他の流派を否定するという轍を踏むことのないようにしたい。鍼灸師がなぜ鍼をうつか。それは患者さんを健康にするためである。その目的はどの流派でもおなじ、それはまるで富士山の頂上に登るようなものである。

登るルートは人それぞれである。静岡県側ルートの人もいるだろうし、山梨県ルートの人もいるだろう。そしてそれぞれが頂上目指して懸命に登る。そのとき見える風景も人それぞれ、違っていい。そしてたどり着く。同じ場所に。

「自分とは違うルート」を否定するのではなく、「自分と同じ理想」を肯定したい。

そして、人を救いたいという良心を忘れたくない。正しい宗教の萌芽の原因も、僕が鍼を志した原因も、それだったんだということを忘れたくない。

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